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教科書に載らない歴史上の人物 29-2 出光佐三

長崎市五島町の就学前教育(プレスクール)・学習塾の羅針塾では、何故「国語力」を最重要視するのでしょうか。

それは、母国語である日本語で世界各国の文献を翻訳してきた先人達の恩恵を受けることが出来るからです。つまり、自然科学・人文科学のあらゆる分野で必要と思う文献を、先人達が英語であれ、フランス語、スペイン語、ドイツ語等等であれ、相当な数の文献を刻苦勉励して翻訳してくれたからこそ、現在の私達が原語を習得しなくても日本語で読むことが出来る訳です。恐らくその様な文献を母国語で理解できる民族は、日本人だけではないでしょうか。

裏返すと、世界の様々な民族は、母国語で書かれた文献が無いので国際的に共通語である英語を学ばざるを得ない、ということです。

さて、以前 教科書に載らない歴史上の人物 29  出光佐三でご紹介した出光佐三氏の別のエピソードを『国際インテリジェンス機密ファイル』公式ブログから引用します。(https://ameblo.jp/jyoho2040/entry-12454489710.html

◆出光佐三『私の履歴書』を読み解く

※要旨

・私の生まれたところは福岡県宗像郡。
門司との間に城山トンネルがあるが、
そのトンネルを出たところの赤間というところだ。

・私の育った町は特殊な土地柄で、
宗像神社という有名な神社があった。
私はそのご神徳を受けたと考えている。

・そういうことで非常にいい恵みを
受けて育ってきていることは間違いない、
と思っている。

・私はいま神社の復興をやっているが、
神というものを今の人はバカにしている。
私どもにはバカにできない事実がたくさんある。
それは私の会社は災害を一度も被っていない。

・戦時中、あれだけ中国から満州、朝鮮、
台湾、南方とほとんど全域に1000人もの人が
働いていたのに、一つも戦禍を受けていない。

・上海の倉庫の近くに爆弾が落ちたが、
倉庫の外側に落ちて破裂したので
倉庫は助かっている。
そういったことは数え上げれば際限がない。

・理屈はいろいろつくかもしれないが、
社員は神のご加護と信じているんだからしょうがない。
また信じないわけにはいかないだろう。

・古歌に、

「心だに誠の道に叶ひなば祈らずとても神や護らむ」

とあるが、
私のところでは神様を祀ってあって
私はこれを一応おがむ。

・すると若い社員が入ってきて
どういうわけで神様をおがむのかと
質問する。
それから私は説明してやる。

→「君らは3年か5年大学にいったために
うぬぼれ過ぎている。
そして人間が完成したように思っているが、
人間というものは実は何も力はないのだ」

→「ここの会社に入ったならばまず俺は大学を出た、
卒業したという気持ちと卒業証書を捨てろという」

→「人間社会の人情の複雑な中に飛び込んで、
その中で鍛えて鍛えて鍛え上げていくところに
人間としての偉さが出てくる。
苦労をすればするほど人間は完成に近づくのだ」

→「私は神様をおがむが、
そのときはただ無我の状態に入るのだ。
家庭では神様と仏様を拝むし、
一日に何回か無我無心の状態に入る。
それは非常に尊いことだ」

→「どうぞ金儲けさせてください。
いい思いをさせて下さい、
というようなことを頼んだことはない。
無我無心になる、これだ」

・・・出光佐三氏は、幼少期から宗像大社を崇敬していたそうですが、昭和12(1937)年、宗像大社に参拝に訪れたところ、神社の荒廃した姿を目の当たりにし、心を痛めたそうです。

そこで宗像大社再興のため、出光佐三氏を中心とした宗像神社復興期成会が結成されます。佐三氏自身も初代会長に就任しました。そして再建のために活動していく中で、政府高官から神社史の作成を勧められたのです。

それを受け、佐三氏達は資料の収集・調査・編纂作業に当たりました。戦争によって、一時的に作業は中断されましたが、昭和36(1961)年に上巻、その後下巻と附巻が完成します。

神社史を編纂していく中で、沖ノ島の学術調査が必要となりました。実はそれまで沖ノ島に関することは、あまり良くわかっていなかったそうです。そこで昭和29(1954)年、初めての調査が行われました。

その調査の結果、4~9世紀のものとみられる祭祀の跡と大量の宝物が発見されます。出光佐三氏が、沖ノ島は“神宿る島”であることを明らかにしたと言っても過言ではないようです。なお、この時発掘された宝物は約8万点、そのほとんどが国宝に指定されました。現在では、宗像大社辺津宮境内にある神宝館で見ることができます。

出光佐三氏が宗像大社再建のために費やしたのは、約30年という歳月と数十億という莫大な私財でした。沖ノ島の調査費用の他にも、辺津宮本殿の修復工事や神宝館の建設などにも援助を行ったといいます。

出光佐三氏は宗像大社に多額の寄進を行ったにもかかわらず、境内にはその名前は残されていません。宗像大社側は名前を残すことをお願いしたそうですが、出光佐三氏は「畏れ多い」との理由で辞退されたと言われています。

境内に名前が刻まれた碑などはありませんが、太鼓橋の前にある燈籠は出光佐三が寄進したものです。また、第二宮・第三宮の手前にある手水鉢に刻まれた「洗心」という文字は、佐三の揮毫(きごう)だといいます。

<出光佐三と宗像大社>(https://www.idemitsu.com/jp/enjoy/history/idemitsu/founder/movie/mov1.html) 当動画は2015年3月22日にRKB毎日放送で放映された番組「出光佐三と宗像大社」を短縮したものです。(RKB毎日放送提供)

教科書に載らない歴史上の人物30 樋口季一郎

長崎市五島町の就学前教育(プレスクール)・学習塾の羅針塾では、国語の力をしっかりつけることが、算数・数学、英語、理科、社会など、多くの教科書の内容を理解する一番の早道だと考えています。

教科書を自ら読解し、更に、参考書や問題集をこなしていく為には、一言一句の意味合いを理解しておかなければならないのは当然です。

さて、

以前本ブログで取り上げた以下の記事(*)で取り上げた樋口季一郎を非常にうまく紹介しているyoutuberの動画をご紹介します。

(*)教科書に載らない歴史上の事実 4 人種平等の精神を国是とする大日本帝国

【日本史】ロシア軍の北海道上陸を阻止し、ユダヤ人を救い、無傷での撤退作戦を成功させた奇跡の日本軍人/樋口季一郎

教科書に載らない歴史上の人物 29  出光佐三

幼児教室・学習塾の羅針塾では、これからの日本を支える子供達に、大きな自信を与え、学ぶ意義を理解し、個々人が精進できるようにするためには、日本の歴史や偉人・先人の行いを学ぶことが必要であると考えます。

当ブログでは、「教科書に載らない歴史上の人物」シリーズを少しづつ書いておりますが、本来は小学校の教科書に掲載されるべきではないかと筆者が思う、日本の偉人を取り上げております。

第29回でご紹介するのは、財界にあって日本人を叱咤激励した出光佐三氏です。

財界研究社『財界』第14巻第4号(1965)より

出光佐三氏は、昭和56年(1981)に逝去されますが、昭和天皇が「出光佐三、逝く」と、

国のため ひとよつらぬき 尽くしたる きみまた去りぬ さびしと思ふ

と詠まれています。

天皇陛下が一国民の逝去を惜しまれて歌を詠まれることは非常に稀なことですから、出光佐三を如何に評価されていたかが偲ばれます。

その出光佐三氏が、「日本人にかえれ」(出光佐三著 昭和四十六年)に、以下の文言を記しています。

序 青年に望む

私は二十六年前の終戦二日後に、社員一同に対し次のような訓示をした。

玉音を拝して

十五日恐れ多くも玉音を拝し御詔勅を賜り涙の止まるを知らず、いい表すべき適当なる言葉を持ち合わせませぬ。

万事は御詔勅に尽きている。陛下は限りなき御仁慈を垂れ給いて赤子を救わせ給うたのである。しかも国民の心中をお察し遊ばして、五内も為に裂くと仰せられました。恐懼の極みであります。最後に今後われらの進むべき道を明らかにお示し遊ばし、神州の不滅を信じ国体の精華を発揚せよ、と仰せられ、人重くして道遠きを念い総力を将来の建設に傾け道義を篤くして志操を堅くせよ、と仰せられている。われわれは朝夕奉読し聖旨に答え奉るのみであります。

私はこの際店員諸君に三つのことを申し上げます。

一、愚痴を止めよ

二、世界無比の三千年の歴史を見直せ

三、そして今から建設にかかれ

愚痴は泣き声である。亡国の声である。婦女子の言であり、断じて男子の採らざるところである。ただ昨日までの敵の長所を研究し取り入れ、己の短所を猛省し、すべてをシッカリと肚の中に畳み込んで大国民の態度を失うな。

三千年の歴史を見直してその偉大なる積極的国民性と広大無限の包容力と恐るべき咀嚼力とを強く信じ安心して悠容迫らず堂々として再建設に進まねばならぬ。

そして国体の精華を発揮し、世界平和に貢献せよ。  (後略)

昭和二十年八月十七日

・・・終戦二日後に、社員に対して檄を飛ばす(自分の主張を述べて行動への決起を促すこと)気合が尋常ではありません。正に、「艱難汝を玉にす*」を実践しています。

*人は困難や苦労を乗り越えることによって、初めて立派な人間に成長するということ。

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医学を志す人の為の戒め 教科書に載らない歴史上の人物 28 緒方洪庵4 

国語力を教育の根本に据える幼児教室・学習塾の羅針塾では、「学ぶ」ことの意義を幼なくても意識するように心掛けています。

近代医学の礎をつくった緒方洪庵は、数多(あまた:多くの)の人材を育てました。

その教えの一端を示すのが以下のドイツの医学者フーフェラントの医学書の抄訳(しょうやく:原文の一部を翻訳すること)です。

現在及び将来、医学の道を志す日本の若者に、是非一読し、その意を汲んで精進して欲しいものです。また、この緒方洪庵の抄訳は医学に限らず、様々な分野で活躍するプロフェッショナルな社会人となる為の基本をも示していると考えます。

江戸時代までの教育を受けた俊英(才能の優れていること)な先人達に共通する語彙力、漢籍に通じた漢字力など、現在の教育では及びもつきません。義務教育で用いる漢字を制限するような国語教育では、古典を理解する力などつきようがありません。

読解力をつけるには、まず正しい漢字熟語などをしっかり小学生の時に身につけることが早道です。

 

「扶氏経験遺訓」大阪大学H.P(https://www.osaka-u.ac.jp/ja/guide/about/tekijuku/achievements.html)より引用

 

扶氏医戒之略」緒方洪庵抄訳

一、 人の為(ため)に生活して己のため生活せざるを医業の本髄(ほんずい)とす 安逸(あんいつ)を思はず名利(みょうり)を顧(かえり)みず唯(ただ)己(おのれ)をすてて人を救はん事を希(ねが)ふべし。 人の生命を保全し人の疾病(しっぺい)を複治(ふくち)し人の患苦(かんく)を寛解(かんかい)するの外、他事(たじ)あるものに非ず。

(筆者訳 :漢字熟語の意味合いを理解しやすくするために括弧書きを付しています)

一、人の為に生活して己の為に生活しないことを医業(医者としての仕事)の本随(元の元、模範)とする。安逸(気楽にのんびりと楽しむこと)を思わず、名利(名誉と利益)を顧みず(気遣わず、心配せず)、唯(ただ:ひたすら)己を捨てて人を救おうと希う(強く望む)べきである。人の生命を保全し(人の安全を保ち)て、人の疾病(病気、疾患)を複治(治療して回復すること)し、人の患苦(疾患の苦しみ)を寛解(病気の症状が軽減、またはほぼ消失すること)すること以外のなにものではない。

二、 病者に対しては唯病者を見るべし、貴賎貧富(きせんひんぷ)を顧りみること勿(なか)れ。 一握(いちあく)の黄金(こがね)を以(もって)貧士(ひんし)双眼(そうがん)の感涙(かんるい)に比(ひ)するに何ものぞ、深く之(これ)を思うべし。

二、病者(病気にかかっている人)に対しては唯(ただ:ひたすら)病者を見るべきである。貴賎貧富(身分の高い低い、貧しいか豊かか)を顧みる(気遣い、心配する)ことをしてはいけない。一握りの黄金と貧しき人の両目から溢れる感激の涙を比べることがあってはならない。深くこのことを思うべきである。

 

三、 其(その)術を行うに当っては病者を以って正鵠(せいこく)とすべし。決して弓矢となすこと勿(なか)れ、固執(こしゅう)に僻(へき)せず、漫験(まんし)を好まず、謹慎して眇看(びょうかん)細密(さいみつ)ならんことを思うべし。

三、その医術を行うに当たっては、病者(病気にかかっている人)を正鵠(狙いどころ、的の中心)とすべきである。決して、弓矢(的を射るための方法・手段)としてはならない。固執(考え・態度を簡単に変えないこと)に僻(偏る、片寄ること)せず、漫験(目的なく、気ままに、試す、調べること)を好まないで、謹慎(言動を反省し、行いを正すこと)して眇看(目を細めて、良く看護すること)細密(細かな点まで行き届いていること)でありたい、と思うべきである。

 

四、 学術を研精(けんせい)するの外(ほか)、言行に意を用いて病者に信任せられん事を求むべし。然(しか)れども時様(じよう)の服飾を用い詭誕(きたん)の奇説を唱(とな)へて、聞達(ぶんたつ)を求むるは大(おお)いに恥じるところなり。

四、学術(専門性の高い学問)を研精(細かに研究すること)する以外に、言行(言葉と行い)に意(こころ、思い)を用いて病者(病気にかかっている人)に信任(信用し、任せること)されようと努めるべきである。然れども(そうであっても)、時様(その時の流行の風俗)の服飾(衣服と装身具)を用い、詭誕(実なき言葉、空言、嘘)の奇説(奇妙な説)を唱えて(主張する、提唱する)、聞達(立身出世すること)を求めるのは大いに恥とすべきである。

 

五、 病者を訪(と)ふは粗漏(そろう)の数診(すうしん)に足を労(ろう)せんよりは、寧(むし)ろ一診(いっしん)に心を労して細密ならんことを要(よう)す。然(しか)れども自(みず)から尊大(そんだい)にして屡々(しばしば)診察するを欲(ほっ)せざるは甚(はなはだ)悪(にく)むべきなり。

五、病者(病気にかかっている人)を訪う(訪問する)ことは粗漏(物事の扱いがいい加減で、手落ちのあること)の数診(数回の診察)に足を労する(足を運ぶ)よりは、寧ろ(どちらかと言えば、いっそ)一診(一度の診察)に心を労して(こころ、気持ちをはたらかせて)、細密(細かな点まで行き届いていること)であることを要する。然れども(そうであっても)、自ら尊大(威張って、いかにも偉そうな態度を取ること)にして、屡々(しばしば)診察することを望まないことは甚だしく悪むべき(あってはならないこと)である。

 

六、 不治(ふじ)の病者も仍(よっ)て其(その)患苦(かんく)を寛解(かんかい)し、其生命(せいめい)を保全(ほぜん)せんことを求むるは医の職務なり。棄(すて)て顧(かえ)りみざるは人道(じんどう)に反(はん)す。たとひ救う事能(あたは)ざるも、之を慰(い)するは仁術(じんじゅつ)なり。片時(かたとき)も其(その)命を延(のべ)んことを思うべし。決して其(その)死を告(つぐ)るべからず。言語容姿皆(みな)意(い)を用(もち)いて之(これ)を悟(さと)らしむること勿(なか)れ。

六、不治の病者(治る見込みのない病人)も、仍(よっ)て(それゆえ、そのために)その患苦(患いの苦しみ)を寛解(病気の症状が軽減、またはほぼ消失すること)し、その生命を保全(安全であることを保つ)しようと努めることは医者の職務である。棄てて(関係を断ち)顧みないことは人道(人として守るべき道)に反することである。たとえ救うことが出来なくとも、これ(不治の病者)を慰する(慰める)ことは仁術(最高の徳である仁(思いやり、慈しみ)ある術(技、技能)である。片時(ほんのわずかな時間、一瞬)もその命を延べん(先へ延ばすこと)ことを思うべきである。決してその死を告げてはならない。言語容姿(言葉や姿かたち)のすべて意(心の働き、気持ち)を用いてこれ(死)を悟らせることがあってはならない。

 

七、 病者の費用少なからんことを思ふべし。命を与(あた)ふるも命を繋(つな)ぐ資(もと)を奪(うば)はば亦(また)何の益かあらん。貧民に於ては茲(ここ)に甚酌(しんしゃく)なくんばあらず。

七、病者(病気にかかっている人)の費用(病を治すための金銭)は、少ないであろうことを配慮しなければならない。命を与えても(救っても)、命を繋ぐ(生き続ける)資(もとで、財産)を奪ってしまえば、亦(また、やはり)何の利益が有るだろうか。貧民(貧しい人)においては(の場合には)茲(ここに)斟酌(相手の事情・心情に心配りをすること)がなければならない。

 

八、 世間に対しては衆人(しゅうじん)の好意を得(え)んことを要(よう)すべし。学術卓絶(たくぜつ)すとも、言行(げんこう)厳格(げんかく)なりとも、斉民(さいみん)の信(しん)を得(え)ざれば之(これ)を施(ほどこ)すところなし。又周(あまね)く俗情(ぞくじょう)に通(つう)ぜざるべからず。殊(こと)に医は人の身命(しんめい)を委托(いたく)し赤裸(せきら)を露呈(ろてい)し最蜜(さいみつ)の禁秘(きんぴ)をもひも啓(ひら)き、最辱(さいじょく)の懺悔(ざんげ)をも告(つ)げざることは能(あたは)ざる所なり。常に篤実(とくじつ)温厚(おんこう)を旨(むね)として多言(たごん)ならず、沈黙(ちんもく)ならんことを主(しゅ)とすべし。博徒(ばくと)、酒客(しゅかく)、好色(こうしょく)、貧利(どんり)の名(な)からんことは素(もと)より論をまたず。

八、世間(世の中、世の人々)に対しては衆人(多くの人、大勢)の好意を得ることが必要である。学術(専門性の高い学問)が卓絶(他に比較するものがないほどに優れていること)していても、言行(言葉と行い)厳格(怠慢、誤魔化しが一切ない厳しい態度)であっても、斉民(人々を苦しみから救うこと)の信(信用、信頼)を得なければ、これ(医術)を施すところがない。また、周く(隅々まで、漏れなく)俗情(世間の事情や人情)に通じなければならない。殊に(とりわけ、特別)、医術は人の身命(身体と命)を委托(委ねる、任せる)し、赤裸(丸裸、包み隠しのないこと)を露呈(あからさまになること)し、最密(最も秘密であること)の禁秘(禁制された秘密)をもひも啓き(あける、広げる)、最辱(最も恥ずかしいこと)の懺悔(告白し、悔い改めること)をも告げないでいられないところである。常に、篤実(情に篤く誠実であること)・温厚(人柄が穏やかで、温かみがあること)を旨(主とする、中心とすること)として、多言ならず(口数が多くなく)、沈黙ならん(物静かであるべき)ことを主(もっぱらであること)とするべきである。博徒(博打うち)、酒客(酒を飲むひと)、好色(異性に対して淫らな気持ちを抱くこと)、貪利(利をむさぼること)の無いようにすることは素より(元々、元来)論を俟たない(ことさら論ずるまでもない)。

 

九、 同業の人に対しては之(これ)を敬(けい)し之(これ)を賞(しょう)すべし。たとひ然(しか)ること能(あたは)ざるも勉(つと)めて忍(しの)ばんことを要すべし。決して他医(たい)を議(ぎ)するなかれ。人の短(たん)をいふは聖賢(せいけん)の明戒(めいかい)なり。彼が過(あやま)ちを拳(あ)るは小人(しょうじん)の凶徳(きょうとく)なり。人は唯(ただ)一朝(いっちょう)の過(あやま)ちを議せられて己(おの)れ生涯の徳を損(そん)す。其(その)損失(そんしつ)如何(いかん)ぞや。各医(かくい)自家(じか)の流(りゅう)有(あり)て、又(また)自得(じとく)の法(ほう)あり。慢(みだ)りに之(これ)を論(ろん)すべからず。老医は尊重(けいちょう)すべし。少輩(しょうはい)は愛賞(あいしょう)すべし。人若(も)し前医(ぜんい)の得失(とくしつ)を問(と)ふことあらば勉(つと)めて之を得(とく)に帰(き)すべし。其(その)冶法(ちほう)の当否(とうひ)は現症(げんしょう)を認(みと)めざるは辞(じ)すべし。

九、同業の人(医者)に対しては、これを敬し(敬い)これを賞す(褒め称える)べきである。例え、然る(そうである)ことが出来ないとしても,勉めて(可能な限り、できるだけ)忍ばん(我慢する、堪える)ことを要す(必要とする)べし。決して他の医者を議する(意見を述べ合う、審議する)ことなかれ(してはならない)。人の短(欠点、短所)を言うことは聖賢(聖人と賢人)の明戒(明らかな戒め、訓戒)である。彼が過ち(他の医者の過ち)を拳る(具体的に示す)ことは、小人(器量の少ない、人徳の無い人)の凶徳(性質が悪い、おそろしい品性・人格)である。人は唯(わずかな、ほんの)一朝(ある時)の過ち(過失)を議せられて(意見を言われ、審議されて)、己の(自分自身の)生涯(人生)の徳を損す(損なう、傷つける)。其の損失は如何ぞや(どんなであろうか)。各医(それぞれの医者)は自家の流(自らの流派、流儀)が有り、また自得の法(自分の力で会得した方法)がある。慢りに(あなどって)これを論じてはならない。老医(老人の医者)は尊重(尊いものとして重んずること)すべきである。小輩(経験の少ないとも輩・ともがら)は、愛賞(愛しんで褒めること)すべきである。人が若し(仮に)、前医(先に診察した医者)の得失(成功と失敗)を問うことがあれば、努めて(できるだけ)これ(前医)を得に帰すべし(有利に結論づけるべきである)。その治法(治療の仕方、方法)の当否(正しいか、正しくないか)は現症(現在の症状)が認められない限りは辞すべき(断る、辞退すべき)である。

 

十、 毎日夜間(やかん)に方(あた)って更(さら)に昼間(ひるま)の接病(せつびょう)を再考(さいこう)し、詳(つまび)らかに筆記するを課定(かてい)とすべし。積(つ)んで一書(いっしょ)を成(な)せば、自己の為にも病者(びょうしゃ)のためにも広大(こうだい)の脾益(はいえき)あり。

十、毎日、夜間に方って(向けて)更に(あらためて)昼間の接病(診察の様子)を再考し(もう一度考え直し)、詳らかに(詳しく、細かい点まで明らかに)筆記することを課定(問い試みて定めること)とするべきである。積んで(長い期間をかけて、次第に積んだり高めたりすること)一書(一冊の書物)を成せば(作り上げれば)、自己の為にも病者(病気にかかっている人)の為にも、広大(広く大きいこと)な脾益(利益となる、役に立つこと)がある。

 

十一、治療(ちりょう)の商議は会同(かいどう)少なからんことを要す。多きも三人に過(す)ぐべからず。殊(こと)によく其(その)人を選ぶべし。只管(しかん)病者(びょうしゃ)の安全を意として、他事(たじ)を顧かえりみず、決して争議の及(およ)ぶ事勿(なか)れ。

十一、治療の商議(相談すること、協議)は会同(会議のために人々が集まること、会合)を少なくすることが必要です。多きも(多くても)三人以上にならないようにすべきである。殊に(更に、加えて)よくその人を選ぶべきである。只管(ひたすら、一途に)病者(病気にかかっている人)の安全を意として(心掛けて)、他事(その人の関係ないこと)を顧みず(気遣わず、心配しないで)、決して争議(互いに意見を主張しあって、争うこと)に及ぶ(達する)ことをしてはならない。

 

十二、病者曽(かつ)て依託(いたく)せる医を舎(す)て窃(せつ)に他医(たい)に商(はか)ることありとも、漫(みだ)りに従(したが)うべからず。先(ま)づ其(その)医に告げて其その説を聞くにあらざれば従事(じゅうじ)すること勿(なか)れ。然(しか)りといへども、實(じつ)に其誤冶(ごち)なることを知て、之(これ)を外視(がいし)するは亦(また)医の任(にん)にあらず。殊(こと)に老険(ろうけん)の病(やまい)にあっては遅疑(ちぎ)することある勿(なか)れ。

十二、病者(病気にかかっている人)が、曽(かって、以前)依託(頼んで、任せてやってもらうこと)をしていた医者を舎て(捨てて、離れて)窃に(ひそかに)他の医者に商る(相談する)ことがあっても、慢りに(思慮なく、無分別に)従うべきではない。先づ(まず)、その医者に告げて、その説(説明、意見)を聞くことがなければ、従事(治療)するべきではない。然りといへども(そうであったとしても)、實(実際)に其誤冶(その診察、治療の誤り)であることを知て(知った以上は)、之(このこと)を外視(捨てておくこと、問題にしないこと)することは、亦(やはり)医師としての任(果たすべき役目)ではない。殊に(とりわけ、特別に)、老険(年老いて、険しい、危険な)の病にあっては、遅疑(疑い迷って、躊躇(ためら)って)することはあってはならない。

 

上件十二章は扶(ふ)氏医訓(いくん)巻末に附(ふ)する所の所戒(しょかい)の大要を抄譯(しょうやく)せるなり、書して二三子(にさんし)に示し亦(また)以て自警(じけい)を云爾(いふのみ)

安政 丁巳(ひのとみ) 春正月     公裁誌

上件(上に掲げた)十二章は、扶氏(フーフェラント氏)の医訓(いくん)巻末に附(ふ)する所の所戒(戒め、訓戒)の大要(要点、あらまし)を抄譯(抜書きをして訳したもの)である。

扶氏・・・ドイツの医者“フーフェラント”のこと、イェナとゲッティンゲン大学に学び、生都ヴァイマルで医業に従い、ゲーテやシラーの診察も行なった。イェナ大学教授、国王の侍医兼医学校長、公衆病院最高医、ベルリン大学の教授、ジェンナの方法を用いて天然痘の予防に努力し、チフスの撲滅にも力を尽くし、また統計学にも功績がある。主著の内科書「エンケリドーメディカム」は、実際編を緒方洪庵が訳し、「扶氏経験遺訓」として出版され、広く読まれた。(1762~1836)

 

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教科書に載らない歴史上の人物 悪者編 2

教科書に載らない歴史上の人物 悪者編の続きです。

平泉澄著「少年日本史」(皇學館大学出版部)P.160〜からの引用でのご紹介。

 

姉の法均、元の名は廣虫(ひろむし)と云う。

弟の清麻呂と共に、早くから孝謙天皇にお仕えして、御信任をいただいて居ました。そして天皇が佛門に入られますと同時に、自分も出家して尼となり、名を法均と改めました。

天平寶字(てんぴょうほうじ)八年に、恵美押勝(えみのおしかつ)の亂があって、死刑に處せられる筈の者が三百七十五人ありました。法均は、固く天皇をお諫め申し上げ、これらの人々の死刑を減じて、流罪や禁固にしました。

その一亂終わった後に、飢(うえ)と病(やまい)とに苦しんで、棄子(すてご)をする者が澤山(たくさん)ありました。法均は、藪の中に棄てられている子供を拾い集めて、自分の養子にして育てました。それが八十三人あったといいます。

そういう人でしたから、重大な問題に就いて神意をうかがう大任を、天皇は法均に命じられたのでしょう。ところが何分女性の身で、九州まで参る事、容易で無く、これを弟に譲ったのです。この姉から見込まれて、代行を命ぜられたのですから、清麻呂の人となりも分かりましょう。

法均と和氣清麻呂(和氣神社HPより)http://wake-jinjya.com

 

宇佐へ向かって出發する時、道鏡から「一寸来る様に」と云われました。行って見ると、「首尾よく大任をはたしたならば、大臣にしてやるぞ」と云いました。その誘惑や強迫をしりぞけて、神勅をありのままに報告し、「我が國は開闢以来君臣の分定まれり、無道の者はこれを排除せよ」と云ったのは、実に偉いと云わねばなりません。道鏡は大いに腹を立て、大隅へ下る清麻呂を、途中で殺させようとしましたが、果たさなかったといいます。

清麻呂は大隅へ流された翌年の八月、稱徳(しょうとく)天皇おかくれになり、光仁(こうにん)天皇御位(みくらい)におつきになりました。天智(てんぢ)天皇の御子(みこ)施基皇子(しきのおうじ)の御子であります。その時には、國を憂うる重臣達が敏活に働いて、道鏡の動きを封じましたが、それには坂上苅田麻呂(さかのうえのかりたまろ)が、道鏡の陰謀を知って朝廷へ報告したのが、役に立った様です。

稱徳(しょうとく)天皇がおかくれになってより十七日後には、道鏡は下野國(しもつけのくに:栃木県)の薬師寺に追われ、同時に習宜阿曾麻呂(すきのあそまろ)は島守(しまのかみ)として多褹島(たねがしま)へ使わされました。そして其の翌日には、道鏡の弟であって、大納言を始め、いくつかの顕官要職を兼任していた弓削浄人(ゆげのきよひと)を、その子三人とともに、土佐の國(高知県)ヘ流され、又その翌日には道鏡の陰謀を探知して報告した坂上苅田麻呂に正四位下(しょうしいのげ)を授け、其の十三日後には和氣清麻呂を大隅より、その姉法均を備後より、呼び戻されました。

前(さき)には清寧(せいねい)天皇お隠れの後といい、また武烈天皇おかくれの時といい、皇子ましまさずして、皇室の危機と云って良い時でさえ、國體(こくたい)を乱そうとする者は出なかったのですが、その後、不幸にして蘇我氏の如き、また道鏡の如き、君臣の分をわきまえぬ不埒な者が現れましたのは、いずれも御信任に甘え、身の程を忘れて増長して来たからであります。その蘇我氏を排除せられたのは、てんじ天皇でありましたが、今度道鏡を退けられたのは、天智天皇の御孫(おんまご)光仁天皇でありました。

 

・・・結果として、弓削道鏡の悪巧みは、法均と和氣清麻呂姉弟をはじめ多くの人々の国を思う気持ち、天皇の尊厳を守ろうという気概によって、防ぐことが出来ました。

平泉澄著「少年日本史」は、少年・少女向けとは言え、旧漢字には読み易いようにルビが振られています。また、正しい言葉遣いや敬語の用い方など、現在の教科書では物足らない国語力が補える良書です。

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