英語と歴史を同時に学ぶ 「史実を世界に発信する会」の英訳教科書 19

長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室 http://rashinjyuku.com/wp では、穀雨(二十四節気の一つ)の「霜止出苗(しもやんでなえいずる)」の時期に因んだわけでは有りませんが、プランターの花々の植え替えをしました。早く来た塾生にも手伝って貰い、根切り虫を土壌の中から駆除。花の苗の成長を見守ります。

さて、英語と歴史を同時に学ぶ」シリーズです。第4章 近代の日本と世界(1) 幕末から明治時代 第1節 欧米諸国のアジア進出 の続きになります。http://www.sdh-fact.com/CL02_2/Chapter%204%20Section%201,%202.pdf

 Choshu and Satsuma Domains’ bid to expel the barbarians

In 1863 (Bunkyu 3), the shogunate succumbed to pressure from the Imperial Court and asked that all domains take measures to drive away foreigners. Choshu Domain eagerly embraced this call to arms, only to find itself confronted the very next year by a punitive expedition of American, British, French, and Dutch warships. Helpless in the face of the withering firepower of the combined fleet, Choshu was quickly defeated. This was called the Shimonoseki War.

The other powerful domain influenced by the sonno joi movement was Satsuma (modern-day Kagoshima Prefecture). Unlike Choshu, Satsuma Domain did support the shogunate’s policy of opening Japan, but Satsuma samurai murdered British citizen Charles Lennox Richardson in 1862, and British warships attacked Kagoshima Castle in Satsuma Domain in retaliation for the “Richardson Affair“. Though Kagoshima was burnt to the ground under the enemy bombardment, Satsuma did put up a tough fight and caused significant damage to the British fleet. This conflict was called the Anglo-Satsuma War.

The British left the fight greatly impressed by the bravery of Satsuma samurai, and henceforth attempted to deepen its ties with Satsuma Domain.

Having seen the military strength of the Western powers firsthand on the battlefield, the samurai of Satsuma and Choshu realized that simply “expelling the barbarians” would not save their country. Instead, they increasingly came to believe that Japan would have to embrace Western civilization in order to modernize its own military forces.

Topic 50 Recap Challenge! –

(1.) Write down two controversial provisions included within the US-Japan Treaty of Amity and Commerce.

(2.) Explain the differences in the policies of the shogunate and those of the samurai of the sonno joi movement.

長州藩の下関砲台を占拠した四ヶ国連合艦隊の兵士達  長州藩は馬関海峡(現関門海峡)を封鎖し、通行する外国船を攻撃したが、四ヶ国の連合艦隊17隻に砲撃されて敗北した(ベアト撮影 神奈川・横浜開港資料館像)

 攘夷を決行した長州藩と薩摩藩

朝廷の攘夷の要求に押された幕府は、1863(文久3)年、各藩に攘夷を行うよう命じた。これを受けて長州藩は攘夷を決行したが、翌年、報復にやってきた米・英・仏・蘭の軍艦の圧倒的な火力によって敗北を喫した(下関戦争)。

 長州藩と並ぶ有力な攘夷勢力は、薩摩藩(鹿児島県)だった。薩摩藩は、幕府の開国方針を支持していた。しかし、1862年に薩摩藩が起こしたイギリス人殺傷(生麦事件)に報復するために、鹿児島に来襲したイギリス艦隊と戦った。艦隊の砲撃により鹿児島城下は炎上した。しかし、薩摩藩は善戦して、艦隊にかなりの被害を与えた(薩英戦争、1863年)。

 以後、イギリスは薩摩藩士の気概に一目を置くようになり、薩摩藩に接近していった。

外国と戦争をした薩長両藩の攘夷派の武士達は、単純な攘夷論では国を救えない、我が国は西洋文明を積極的に取り入れ、軍事力の近代化を図らねばならないと考えるようになった。

 まとめにチャレンジ 

①米国と結んだ日米修好通商条約に含まれていた二つの問題点を書いてみよう。

②尊王攘夷派の武士達と幕府の方針の違いを説明してみよう。

The Tsushima Incident

The foreign threat to Japan came no less from the north. In February 1861 (Bunkyu 1), the Russian warship Posadnik suddenly appeared in Aso Bay, Tsushima Island. Three hundred and sixty Russian soldiers disembarked, occupied part of the island, and killed several local people. Russia was an imperial rival of Great Britain and hoped to turn Tsushima into a military outpost for its own incursions into the Pacific.

The shogunate convinced Great Britain to compel the Russians to leave, but the occupation of Japanese territory for half a year hammered home to the people of late-Edo Japan the necessity of a strong national defense.

 

対馬事件

 外国の脅威は北からもやってきた。1861(文久元)年2月、ロシアの軍艦ポサドニック号が、突然、対馬の浅茅(あそう)湾に来航した。360人のロシア兵が島の一部を占拠し、島民殺害事件まで起こした。ロシアの目的は、イギリスに対抗して対馬を太平洋進出の軍事基地にすることだった。

 幕府はイギリスの力を借りて退去させたが、半年に亘り日本の領土を占拠されたこの事件は、幕末の人々に国防の重要性を認識させた。

 

・・・現在も国防の最前線である対馬。

元寇襲来の文永の役(文永11(1274)年)では、宗資国は80余騎で応戦しながら対馬勢は多くの元兵と元軍の将軍を射倒し、宗資国自らも4人射倒すなど奮戦したものの、宗資国以下の対馬勢は総討ち死にした。その時の対馬の惨状を日蓮が以下のように伝えている。

去文永十一年(太歳甲戊)十月ニ、蒙古国ヨリ筑紫ニ寄セテ有シニ、対馬ノ者、カタメテ有シ総馬尉(そうまじょう)等逃ケレハ、百姓等ハ男ヲハ或八殺シ、或ハ生取(いけどり)ニシ、女ヲハ或ハ取集(とりあつめ)テ、手ヲトヲシテ船ニ結付(むすびつけ)或ハ生取ニス、一人モ助カル者ナシ、壱岐ニヨセテモ又如是(またかくのごとし) — 『日蓮書状』

元軍は宗資国以下の対馬勢を破った後、島内の民衆を殺戮、あるいは捕虜とし、捕虜とした女性の「手ヲトヲシテ」つまり手の平に穴を穿ち、これを貫き通して船壁に並べ立てた、としています。

その約六〇〇年後の対馬事件は、ロシア軍艦ポサドニック号が文久元年(1861)二月に対馬尾崎浦に来航し、浅茅湾に居座り、九月まで対馬藩や幕府がその対応に苦慮したものである。対馬藩内では対応を巡って、武力での排撃を主張する攘夷派と紛争を避けようとする穏健派で論争が起こり藩内は混乱。宗義和は事を荒立てず穏便に解決しようと接しながらも、問状使をポサドニック号に派遣し、その不法を何度か詰問した。しかしロシア側は無回答を貫き、優勢な武力をもって日本側を脅かしたり、住民を懐柔したりし、木材・牛馬・食糧・薪炭を強奪または買収して滞留の準備を整えた。またロシア水兵は短艇を操って沿岸を測量し、山野を歩き回って野獣を捕獲したり、中には婦女を追跡して脅かす水兵もいたため、住民は激昂し、しばしば紛争が起こった。七月に、イギリスが幕府に英艦隊の圧力によるロシア軍艦退去を提案。幕府は独力で排除できず、イギリスの干渉によってロシア艦隊が退去に至った。

いつの時代も、しっかりした軍事力を有していないと、他国の侵略に翻弄されてしまうという厳しい現実。それを歴史は証明しています。

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