何故、「学ぶ」のか 3

長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室 http://rashinjyuku.com/wp では、塾生のタイプに応じて学び方の助言をしていきます。幼児期にご縁があれば、打つべき様々な手法を活用することが出来ます。小学生、中学生と学年が上がると、日々の課題や宿題の量が増えますから、それをしっかり終えてから、次の段階に進みます。

さて、何故、「学ぶ」のか、について、貝原益軒著『和俗童子訓』(注*)から抜き書きをしてご紹介します。

(注*)『和俗童子訓』は、宝永七年(1710)、益軒が八十一歳のおりに著述されたものです。彼の教育思想が体系的に組み立てられている書物であり、我が国における最初のまとまった教育論書です。総論から始まり、児童心理の発達過程に即する一般教法と、教科内容に即した読書法と手習法とを含み、別に女子教育論をつけ添えたものであり、ほぼ教育活動全分野に説き及んでいます。

 

善に就き悪を去る志を立てよ

いとけなき時より、善をこのんで行なひ、悪をきらひて去る、此(この)志(こころざし)専一(せんいつ)なるべし、此志なければ、学問しても、益をなさず。小児の輩(ともがら)、第一に、ここに志あるべし。此事(このこと)まへにもすでに云(いい)つれども、幼年の人々のために、又かへすがへす丁寧(ていねい)につぐるなり。人の善を見ては、我も行なわんと思ひ、人の不善(ふぜん)を見ては、わが身をかへりみて、其(その)ごとくなる不善あらば、改むべし。かくの如(ごと)くすれば、人の善悪(ぜんあく)、を見て、皆(みな)わが益(えき)となる。もし人の善を見ても、わが身に取て用ひず、人の不善を見ても、わが身をかへり見ざるは、志なしと云(いう)べし。愚(おろか)なるの至(いた)りなり。

父母の恩を、片時も忘れるな

父母の恩はたかくあつき事、天地に同じ。父母なければ、わが身なし。其(その)恩(おん)、報(ほう)じがたし。孝(こう)をつとめて、せめて万一の恩をむくふべし。身の力、財のちから、をつくすべし。おしむべからず。是(これ)父母につかへて、其ちからをつくすなり。父母死して後は、孝をつくす事なりがたきを、かねてよくかんがへ、後悔ならん事をおもふべし。

子供に学問させることをいとう悪風

年わかき人、書をよまんとすれば、無学なる人、これを云(いい)さまたげて、書をよめば心緩(こころゆる)く、病者になりて、氣(き)よはく、いのちみじかくなる、と云(いい)ておどせば、父母おろかなれば、まことぞ、と心得て、書をよましめず。其子(そのこ)は一生おろかにておはる。不幸と云(いう)べし。

習い馴れる力を恐れよ

人の善悪は、多くはなら(習)ひな(馴)るるによれり。善にならひなるれば、善人となり、悪にならひなるれば、悪人となる。然(しか)れば、いとけなき時より、ならひなるる事を、つつむべし。かりにも、あしき友にまじはれば、ならひて、あしき方に早くうつりやすし。おそるべし。

学問する法

師の教えをうけ、学問する法は、善をこのみ、行なふを以(て)、常に志とすべし。学問するは、善を行はんがため也。人の善を見ては、わが身に取りて行なひ、人の義ある事をきかば、心にむべ(宜)なりと思ひかん(感)じて、行ふべし。

・・・「何故、『学ぶ』のかは、上記「学問する法」の一文に、「学問するは、善を行はんがため也」と明確に指し示しています。

人は「学ぶ」ことの意味や、動機を誰かから教えられたり、示されたりするのではなく、年齢に応じて自らが意識していかなければなりません。自得(自分の力で悟ること。自分自身で理解し、会得すること)するしかありませんし、親などの周囲の人もそれまで待ってあげることしかできません。試験や受験の時期があるので、周りはやきもきしますが、当の本人の心に「学び」の火が点かない限り、本当の成績向上には繋がらないのが実情です。

人に『学ぶ」ことをinspire(発奮させる、鼓舞する)するヒントは・・・

見聞を広めること(体験)。

読書。

感動すること。     ・・・でしょうか。

 

 

 

 

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