教科書に乗らない歴史上の事実 5 「三種の神器」

塾生には幼児さんに限らず、児童・生徒に常識として知っておくべき様々な質問をします。常識(ある社会で、人々の間で広く承認され、当然持っているはずの知識や判断力)の有る無しは、社会人になる為に最低限持っておくべき素養とも言えます。これは、日頃から家庭で身に付けさせることとして、日本人なら代々、祖母から母、母から娘(息子)へと継承されてきたものです。

筆者は幼児期に母から敬語の用い方を学んだ記憶があります。どういう時に、どのような人に、どのような場面で用いるか。更に、最高敬語として「陛下」「行幸」「崩御」なども教えられました。当然、音の「へいか」「ぎょうこう」「ほうぎょ」で記憶し、のちに長じて改めて辞書で再確認しました。不思議なもので、歳を経るごとに様々な言葉が蘇ります。

さて、度々引用させていただく「国際派日本人養成講座」からのご紹介です。

国柄探訪:「三種の神器」が示す「和の国」ぶり http://blog.jog-net.jp/201908/article_3.html

   国柄探訪:「三種の神器」が示す「和の国」ぶり

 我が国の「和の国」ぶりは、すでに神話の中で示されている。

■1.遠い神代につながる三種の神器の由来

 本年5月1日午前10時30分、新帝陛下が皇位の証(あかし)として三種の神器を引き継がれる「剣璽等承継の儀」が執り行われた。

 完全な沈黙の中で、三種の神器のうち草薙太刀(くさなぎのたち)と八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)、および、国璽(国家の印章)と御璽(天皇の印章)が御前の白木の台に置かれ、その後、陛下の御退出と共に、それらも運び出される、という5分程度の簡素な儀式である。

 勾玉を璽とも呼び、国璽・御璽を含めて、「剣璽等」と呼ばれる。三種の神器のもう一つは八咫鏡(やたのかがみ)だが、これは宮中三殿の賢所の御神体であるため、動かされない。

 いずれにせよ、剣璽とも箱に収められ、布に包まれていて、天皇ですら、その中をご覧になる事ができない、という神秘的なものである。

 三種の神器の由来を辿ると、それは我が国の遠い神代に繋がっていく。

 まず八咫鏡と八尺瓊勾玉(数多くの勾玉を長い緒に貫き通した玉飾り)は、古事記によれば、天照大御神(あまてらすおおみかみ)が弟・速須佐之男命(はやすさのをのみこと)の乱行に責任を感じて天の岩屋に閉じこもってしまわれた際に、榊(さかき)にかけて大御神を引き出す際に使われた。

 また、草薙大刀は高天原を追放された速須佐之男命が八岐大蛇(やまたのおろち)を退治した際に尾から出てきたもので、天照大神に献上されたものである。

 後に、天照大御神が皇孫・天津日高日子番能瓊瓊杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと、「天の高い所からにぎわしい恵みをゆきわたらせる日のみ子」)を葦原中国(あしはらのなかつくに)に下される時に、これら「三種の神器」を授けられたのである。

・・・因みに、筆者は幼児期に絵本で速須佐之男命が八岐大蛇(やまたのおろち)を退治した話を読み、更に小学校六年生の学芸会で速須佐之男命役として八岐大蛇を退治し、草薙大刀を頭上に掲げた記憶があります(最近の公立小学校で学芸会の演目に神話が上がることはないのではないかと思いますが・・・)。

■2.三種の神器は「和の国」を作るための三大原則を示している

 そもそも大御神が葦原中国に皇孫を差し向けたのは、「道速振(ちはやぶ)る荒振(あらぶ)る国つ神等(ども)が多(あま)た居(あ)る」(勢いはげしく、荒ぶる国つ神たちが大勢いる)」状態なのを、何とか平和に治めたいとの願いからである。

 田中英道・東北大学名誉教授の画期的な学説によれば、縄文時代には温暖な気候のもとで、日本列島の人口はほとんどが関東・東北に住んでいた。高天原とは当時の東日本に存在していた「日高見国(ひだかみこく)」であったとする。それが紀元前10世紀頃からの気候の寒冷化によって、人口が南下し、また大陸・半島からの難民・移民も増えて、西日本が不安定になった。

 天孫降臨の目的とは、この不安定となった西日本に「和」をもたらす事であった。その際に大御神が与えた三種の神器は、どのように「和の国」を作るべきかが示されている。

 まず、八咫鏡に関しては、大御神は次のように言われている。

__________
此の鏡は、専(もは)ら我が御魂と為(し)て、吾が前を拝(をろが)むが如く、いつき奉れ」(この鏡はひたすら私の御魂として、私を祭るように祭り仕えなさい)
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 統治者は鏡に自分の心を映して、そこに和を希求する大御神の御心を継承しているか、私心で曇らされていないかを省みよ、との教えであろう。

 第二の八尺瓊勾玉は、すべての人はこの玉飾りのように一つの命で結ばれている事を暗示し、その平等観、同胞感をもって民を大切にせよ、という事のようだ。

 第三の草薙太刀は、八岐大蛇など、この世の和を乱す者と戦う勇気の象徴である。

 三種の神器こそは、天照大神が地上において「和の国」を建てるために示された原則であり、それを継承して代々「和の国」を統治されてきたのが歴代天皇である、という事になる。

■3.「清明心」が「和の国」の基盤

「和」との関連から、三種の神器の指し示す所を掘り下げてみよう。まず、鏡の象徴する「無私の心」。和を実現するには、一人ひとりが私心による心の曇りがないか、よく省みなければならない。

 現代の我々も、例えば電車の中で目の前に杖をついたお年寄りが立っているのに席を譲らないでいたら、心が落ち着かない。そんな時、思い切って席を譲ったら、清々しい心持ちになる。

 身を守る牙も爪もない人間は共同体を作って、互いに助け合うことで生き延びてきた。その過程で、共同体を保つための利他心を本能として発達させた。電車の中で席を譲ることで心が晴れ晴れとする、というのは、利他心という本能を満足させた快感なのである。

 そういう人間心理を観察力豊かな我々の先祖はよく知っていて、利他心に満ちた心を「清明心(きよくあかき心)」と呼んで大切にした。それは共同体を築き、維持するための原動力である。鏡が象徴する清明心こそ、「和の国」を成り立たせる基盤なのだ。

 後に聖徳太子が十七条憲法で「和を以(もっ)て貴(たふと)しと為」すとの理想を掲げられたが、それは単に「仲良くすることが大事だ」という次元の「お説教」ではない。「和」とは共同体の各人が「背私向公(私に背いて公に向かう)」、すなわち私心に「背い」て、「公」すなわち共同体のために心を向ける、という姿勢によって築かれるものだ、と説かれたのである。

 この「背私向公」が、戦時中に唱えられた「滅私奉公」とは全く異なる点に留意したい。「和の国」は「私」のないロボットによって成り立つ全体主義社会ではない。「私心」は人間の性(さが)として滅ぼせないものだ。しかし、各自が鏡に映った自分の姿を見て「私に背いて公に向かう」処に、清明心が広がり、互いに信じ合い、助け合う「和の国」が成り立つのである。

・・・利他心に満ちた心を「清明心(きよくあかき心)」と呼ぶ。この意味合いを、幼い頃から知ることが出来れば、「世の為、人の為」に学ぶ意義を見出していくのではないでしょうか。

■4.勾玉の示す平等感、同胞感

 第二の勾玉(まがたま)はおたまじゃくしのような不思議な形をしているが、それは胎児の形を模したものという説がある。たしかに、[1]での比較写真を見れば、勾玉は胎児のレントゲン写真と区別がつかないほど、そっくりである。その勾玉が緒でつながっているということは、それぞれの命が、「神の分け命」であることを象徴しているようだ。

 こういう生命観は、人間は男女や階級に関わらず、生まれながらに平等な同胞である、という人間観をもたらす。万葉集で天皇から農民、兵士に至るまで社会的地位や貧富に関係なく、真心の籠もった歌を集めているのは、こういう平等感、同胞感の表れだろう。「和の国」の民は、こういう平等感、同胞感で結ばれていなければならない。

 ここで留意すべきは、同胞感といっても、同じ大和民族の中だけに留まらない点だ。たとえば、百済からの帰化人・王仁(わに、中国系という説も根強いが)の次の歌は『古今集』の仮名書きの序文で紹介されている。

難波津(なにはず)に咲くやこの花ふゆごもり今は春べと吹くやこの花
(難波津に吹く木の花よ。長い冬ごもりが終つて、さあ春が来たぞとばかりに、あのやうに盛んに咲く木の花よ)

 この歌が「歌の父母のやうに」手習う人のはじめに習うべき教材とされている事からも、当時の人々の間では外国人という差別意識はなかったと思われる。

 この歌は、仁徳天皇が即位前にその弟君と皇位を譲り合って3年間も経ってしまった際に、弟君の学問の師として呼ばれた王仁が、仁徳天皇に即位を勧められた歌であるという。王仁に私心があれば、自分が教えている弟君を推したであろうが、この歌には仁徳天皇に「さあ、ご即位なされよ」と呼びかけられた清々しい心が感じられる。

 外つ国に生まれた人でも、清明心をもって公のために尽くそうとする人々は、同胞感をもって迎えられたのである。

■5.草薙太刀による「言向け和す」

 第三の草薙太刀はどうだろうか。まず確認すべきは、この剣は由来からして「防衛的」だ、という事である。前述のように、この太刀は速須佐之男命が退治した八岐大蛇の尻尾から出てきた。命が大蛇を退治したのは、8人の乙女のうち7人まで食べられてしまって最後に残された櫛名田姫(くしなだひめ)を救うためだった。

 また、後にこの太刀は第12代景行天皇の皇子・倭建命(やまとたけるのみこと)が東征をされた折り、相模の国で火攻めにあった際に、草を刈り払って、向かい火をつけて身を守った時にも使われた。これが草薙太刀の名前の由来となっている。

 景行天皇は倭建命に次のように命ぜられていた。

__________
 東の方の十二(とをあまりふたつ)の道の荒ぶる神とまつろはぬ人等(ひとびと)とを言向(ことむ)け和(やわ)し平らげよ。
(東の方にある十二の国の荒れすさぶ神と、服従しない者たちとを説得し、平らかにせよ)
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 小学館『全文全訳古語辞典』によれば、「言向く」は「言葉を用いて服従させる。説得して従わせる」、「やわす」は「和らげる。平定する。帰順させる」とある。すなわち、争いに明け暮れている地方豪族たちに、大和朝廷に帰順して平和に暮らすよう説得する事である。

「言向け」や「言向け和す」は古事記の中に何度も使われている。そもそも天照大神も葦原中国の平定を任すべき神を問いて「何れの神を使はしてか言趣(ことむ)けむ」と神々に相談された。その後、任務を果たした建御雷神(たけみかづちのかみ)は、「葦原中国を言向け和し平らげつる状(かたち)」を復奏している。

各地で相争う地方豪族たちに、平和的に国家建設に参加せよと勧めるのが日本神話で語られたアプローチであった。戦って相手を降伏させたのでは、相手は恨みを抱き、その結果、清明心をもって「和の国」に参加する事にはならない。

 しかし、説得に応ぜすに、戦い続ける相手、あるいは「和の国」を害そうとする相手とは、剣をもって戦わなければならない。「和の国」は「非武装平和」では建設も維持もできないのである。

・・・我が国の歴史を他の国の歴史と比較した場合、「説得に応ぜすに、戦い続ける相手、あるいは「和の国」を害そうとする相手とは、剣をもって戦わなければならない。」という国柄の日本とは異なるように思います。それは、歴史を遡ってみると、古事記の神話に言う大國主の命の「国譲り」に由来があるようです。

大国主命(ウィキペディア掲載写真)

■6.「うしはく」と「知らす」の違い

 葦原中国平定の任務を果たすために、建御雷神はその地を支配する大国主命(おほくにぬしのみこと)に対して、こう問いただした。

__________
 汝がうしはける葦原中国は、我が御子の知らさむ国と言依(ことよ)し賜ひき。故(かれ)、汝が心は、奈何に。
(お前が領有する葦原中国は、わが御子の治められる国であると(天照大神は)ご委任なさった。そこで、お前の心はどうか。)
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 大国主命が「うしはける」葦原中国は、我が御子の「知らさむ」国であるという。この「うしはく」と「知らす」の違いは何か。

 明治帝国憲法の起草者の一人、井上毅(こわし)は、記紀を研究する過程で、天照大神や歴代天皇に関わるところでは、すべて「治める」という意味で「しらす」が使われ、大国主神や一般の豪族たちの場合は、「うしはく」が使われていて、厳密な区別がなされていることを発見した。

 ここに日本国家の根本原理があると、井上は確信した。「しらす」とは「知る」を語源としており、民の喜びや悲しみ、願いを知ることである。それは民の安寧を祈る無私の心につながる。

 それに対して、「うしはく」は「自分の財産として領有する」という意味であり、中国の皇帝や欧州の王のように民を財産として、支配する事を指す。それは私心に基づく支配である。

「知らす」こそ「和の国」の統治原理を示した言葉なのである。国家の中心に無私の心をもって、民の幸せを祈る中核があることが、「和の国」の原理である。その無私の祈りが国民に伝播して、国民がそれぞれの立場で公のために尽くしていく。そこに「和の国」の美しさと勁(つよ)さがある。

■7.「八百万の神、天の安の河原に神集い集いて」

 鏡に象徴される清明心、勾玉の平等感・同胞感、剣の「言向け和す」、それらによる統治原理としての「知らす」。「和の国」の根底にあるのは、人間を心ある存在として捉え、その心が活き活きと働いて、自立的主体的に共同体を支える姿である。

 そこには民を家畜のように領有する専制皇帝や、人民をロボットのように支配する独裁者の姿はない。この「和の国」の形は、現代の自由民主主義に通ずる。現代の民主主義は、古代ギリシャ、ローマ、ゲルマンの「民会」に起源を有するようだが、それに酷似した光景が日本神話にも出てくる。

 たとえば、速須佐之男命の悪行に責任を感じて、天照大神が天の岩屋に閉じこもってしまわれた際には、「是を以(も)ちて、八百万の神、天の安の河原に神集い集いて(それですべての神々が天の安の河原に集り)」、どうしたら良いかを相談したのだった。しかも、その際は、思金神(おもいかねのかみ)に案を出させている。まさに間接民主主義である。

 無事に天照大神を天の岩屋から引きずりだした後も、「八百万の神、共に議(はか)りて」(すべての神々は一緒に相談して)、速須佐之男命を追放処分にすることを決めている。

 このように「和の国」の伝統的な統治形態は自由民主主義に酷似している。明治維新に際し、五箇条の御誓文を出して、第一条に「広ク会議ヲ興(おこ)シ、万機公論二決スベシ」と宣言したのも、この伝統があったからだろう。

 我が国の「和の国」ぶりは、以上述べたように神話時代からの生命観、人間観、社会観に根ざしているのである。

 

・・・伊勢雅臣氏主宰のブログ「国際派日本人養成講座」は、様々な視点から世の人を啓蒙する記事を掲載されています。

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