母の教えと教訓歌 12 手島堵庵

長崎市五島町の羅針塾 学習塾・幼児教室では、国語教育の一環として古典・漢文の世界にも足を踏み入れます。

さきにご紹介しました実語教(平安時代末期から明治初期にかけて普及していた庶民のための教訓を中心とした初等教科書)のみならず、良書があれば活用していきます。
さて、
「母の教えと教訓歌」シリーズ、今回は手島堵庵です。

    手島堵庵像 

 

井戸掘りて 今一尺で 出る水を 掘らずに出ずと いう人ぞ憂き
(『児女ねむりさまし』の歌)

「井戸を掘り進めているときに、あと一尺(30.3cm)掘れば水が出るのに、掘らないで諦めてしまい「水が出ない」と言うのは悲しむべきことである(困ったものである)。」

江戸時代中期には、商業の発展に伴い都市部の商人は経済的に豊かになっていきました。
一方、百姓は社会の基盤とみなされるが、商人は生産するわけでもないのに利益だけは得ると蔑視されがちでした。
飢饉や疫病の流行の際には米の値段が乱高下し、商人の米の買占めなどにより、一揆や打ち壊しが起きて社会不安も大きくなりました。
商人の閉塞感が広がる中、その精神的な苦痛を救おうとして「人は如何に生くべきか」について論じ始めたのが石田梅岩でした。
梅岩は「石門心学」と呼ばれる道徳哲学において、士農工商は人間の上下ではなく単なる職業区分であること、倹約、正直、堪忍などの精神が大事であること、などの道徳を町人に分かりやすく説きました。

慈悲まこと 正直も皆 我身より 現はれ出づる 光ぞと知る
(石田梅岩)

梅岩の門下に十八歳で入門したのが手島 堵庵です。
石田梅岩亡き後、石門心学の中心となり、庶民への普及に専念して推進者となります。
また、女性のための講座や、年少者の為に日中行う「前訓(ぜんくん)」という講座も開きました。
その講義には道話(*)や道歌(*)などが用いられました。

*道話=心学者によって行われた訓話。身近な例を挙げて、分かりやすく道徳を説いたもの。
*道歌=道徳的、教訓的な短歌のこと。様々な体験から出た世智であり訓戒で、昔から日本人に親しまれている。

手島 堵庵とは

     手島堵庵前訓

手島 堵庵(てじま とあん)
享保3年(1718)~天明6年(1786)
江戸時代中期の心学者。
十八歳の時に石田梅岩に師事。
京都の商家に生まれて家職を勤めながら十八歳で石田梅岩について心学を修め、二十歳で開悟しました。
四十四歳で家督を長子に譲ってのちは心学の布教と統制に専念し、心学普及の推進者となりました。。
隠居した当初は、京都富小路の五楽舎に住み、講学の場とするも、門弟の増加により、安永2年(1773年)に五条東洞院に修正舎、安永8年(1779年)には西陣の時習舎、天明2年(1782年)には、河原町に明倫舎を建て、石門心学の普及、宣伝に尽力します。
弟子には、中沢道二・布施松翁・上河淇水・脇坂義堂・薩埵徳軒などがいます。

梅岩を継承して人間の本質を「性」に求める教化理念を中核としましたが、梅岩教学にみられた社会批判の側面を捨象し、心に「思案なし」の境地を築く自己批判を中心とした精神修養によって心学を再構成しました。

世俗的な文言や絵を刷りこんだ「施印」、幼児教育にも努め、子供向けに『新実語教』『男子前訓』『女子前訓』、女性向けに『女冥加訓』、子守娘には『子守唄』を編述するなど、布教の相手にふさわしい教材や教科書を用意して教化に努めました。

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