長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室 http://rashinjyuku.com では、ご縁のある方々には子育てや家庭教育についての有益な情報も伝えて行こうと考えています。

早教育の例として取り上げられるカール・ヴィッテの教育法について述べられたものがあります。漢字教育で著名な石井勲先生の著書「幼児はみんな天才」から引用してご紹介します。長文ですから、数回に分けてのご紹介です。

英語版Wikipediaにはカール・ヴィッテは以下のように記されています。

Johann Heinrich Friedrich Karl Witte (born July 1, 1800 ; died March 6, 1883 i) was a German jurist and scholar of Dante.

Witte was the son of pastor Karl Heinrich Gottfried Witte who encouraged a fairly intense program of learning. When Karl Witte was nine, he spoke German, French, Italian, Latin, and Greek, and on April 10, 1814, at the age of 13, he became a doctor of philosophy at the University of Giessen  in Germany. As a result, Witte was listed in  The Guinness Book of World Record as the “youngest doctorate”, a record that still stands; however, The Guinness Book of World Records lists his age as 12.

ヨハン ハインリッヒ フリードリッヒ カール ヴィッテ(1800年7月1日生れ、1883年3月6日亡)はドイツの法学者でダンテ研究者(学者)。ヴィッテはかなり強烈な学習プログラムを奨励したカール ハインリッヒ ゴットフリード ヴィッテ牧師の息子でした。カール ヴィッテが9歳のとき、独語、仏語、伊語、羅甸(ラテン)語、希臘(ギリシャ)語を話し、1814年4月10日13歳の時、ドイツのギーセン大学の哲学博士になりました。その結果、ヴィッテはギネスの未だもって世界記録であると記されている「最も若い博士号の学位」として列せられています。世界記録ギネス本には彼の年齢は12歳とされている。

カール ヴィッテ

カール・ヴィッテは一八〇〇年、ドイツの小さな村に牧師の子として生まれました。牧師だった父は、非常な卓見の持ち主で、当時としては驚くべき独創的な教育論を持ってゐました。それは一言で言えば「子供の教育は、子供の知力が見え始めたと同時に始めるべきだ」といふものでした。さうすれば、大抵の子供は将来非凡な人間になるといふのです。ただし、彼はその著書の中でこう言ってゐます。「自分は天才を作るつもりで、このやうな教育をわが子に施したのではない。ただ円満な人格の人間を育てようとした結果、このやうになったのだ」と。

 とかく早教育や英才教育は批判の的になります。かういふ教育の結果、偏った人格や病気がちの弱い肉体の持ち主になってしまふといふ心配をする人があります。それにカール・ヴィッテの父親は答へたといふわけです。実際には、カール・ヴィッテは偏った人格とはおよそ程遠い円満な人柄で、健康面でも八十三歳といふ当時としては大変な高齢まで元気で法学者としての仕事を続けてゐましたから、かういふ批判は当たりませんでした。

カール・ヴィッテは、幼児期に既に三万語の語彙を持ち、フランス語、イタリア語、ラテン語、英語、ギリシャ語をマスターし、特に数学では将来を嘱望されるほどの才能を示しました。僅か九歳でライプチッヒ大学に入学を許され、十三歳で哲学博士、十六歳で法学博士になり、ドイツの各大学で法学の講義を行ひました。かたわら、イタリア留学中に興味を抱いたダンテについても、その道の専門家も舌を巻くほどの研究があったといふ多方面にわたる学者でありました。

 さて、カール・ヴィッテの父が息子に早教育を施した直接のきっかけは、教育者と牧師とから成るグループの間の議論から生まれました。まだカールが生まれる前のことでしたが、「子供の能力を決めるのは遺伝か、それとも後天的な教育か」といふ議論が、このグループの中で、交されたのです。カール・ヴィッテの父は、以前から、「遺伝より、教育が大事だ、それも生まれた時から五、六歳までの教育の良し悪しによってきまる」といふ意見を持ってゐましたので、それを主張しました。しかし、この説を支持したのはわづか一人だけで、他の人々は皆こぞって反対したので、「では、もし私に子供が出来たら、その子を私の教育で非凡な人間に育て上げてお目にかけませう」と言ったのださうです。

 その後間も無く、子供が生まれましたが、残念なことに、この子は死んでしまひました。次に生まれたのが、カールでした。父親はこの子を自分の信念に従って、細心の心づかひをもって育てたのです。

 ここで注目したい事はカールは決して生まれつき知能の勝れた子供ではなかった事です。反対に、白痴かと思はれるほど、鈍い子供だったさうです。母親でさへ、「こんな子は教育しても駄目です」と諦めてゐたといひます。しかし、父親の方は、諦めませんでした。

 「我々は子供を社会に送り出すにあたって、出来るだけハンディキャップを少なくしてやる義務がある」と考えてゐた父親は、英知の限りを尽くしてカールを教育しました。

 彼の教育の根本理念はかういふことでした。

「子供の生まれつきの可能性を一〇〇とした時、子供を放りっぱなしで育てれば、その能力は発現を見ることが出来ずにどんどん減ってしまふ。五歳になれば八〇に減り、十歳になれば六〇に減り、十五歳になれば四〇に減るといふ具合に。だから子供を育てるのに大切なことは、時期を失はないうちに、潜在的な能力を発達させることである。それには、早くから子供の能力に働きかけてこれを発達させなければならない。つまり、子供の中に少しでも知力が芽生えたと見えたら、ただちに始めなければならない。では具体的にどうすれば良いのか。それは子供に早くから言葉を教へることである。言葉は知識を刈り入れる道具に他ならないから、言葉を早く、多く教へることによって、知識を獲得する能力は、素晴らしく大きなものになるに違ひない。」

(続く)

凡そ200年以上前に、 「我々は子供を社会に送り出すにあたって、出来るだけハンディキャップを少なくしてやる義務がある」と考えていた父親がいたのですね。当時のドイツでは、国民の識字率は相当に低かったし、教育は一部のエリート層のものだったはずです。父親は牧師で謂わば知識人です。しかし、自らの仮説を断固とした意思に基づき、その時代の常識を覆すほどの教育を実践したことが、現在まで語り継がれている教育法の所以です。

posted by at 14:25  |  塾長blog

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