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食事の作法

長崎市五島町にある難関大学・医学部を目指す幼児教育・学習塾 羅針塾では、これからの日本を支える子供達にしっかりと学ぶ力をつけていって欲しいと考えます。

その子供達も、いずれ大人になり社会へ出ます。そうすると、社会のルールや常識、礼儀作法など、人としての有り様(あるべき姿)を様々な場面で問われます。その為にしっかり身につけるべき作法について、「日本の礼儀作法」〜宮家のおしえ〜 竹田恒泰著(マガジンハウス)から一部引用してご紹介します。

作法はまず「食事から」

箸に手を付けた瞬間その人の評価が決まる 知らないでは済まされない日本人の常識

およそ食事の作法は、自然の恵みに感謝すること、人々の働きに感謝すること、そして相手を尊重することの三点に尽きる。この要点を踏まえて、食事の作法の核心を述べていきたい。食事の作法は、ただ形だけを身に付けるのではなく、その意味も一緒に知るようにしなくては意味をなさない。作法の根底に横たわる「精神」を会得すれば、自ずと形も整うというものだ。何故そのような作法になっているかを考えれば、すべて感謝と尊重が元にあることがわかるはずである。

そして、食事作法こそが、日本の礼儀作法の根本といってもよいかも知れない。食事作法ができていなければ、いかに他の礼儀作法ができていても、何もできないのと等しい。逆に、食事作法さえできていれば、他の作法の欠陥を補うこともできる。

 

・・・食事は、乳児から幼児、そして少年・少女へと成長する際に、日に何度もします。したがって、日々「作法」を学ぶ機会があることになります。そうすると、家族で食卓を囲む際に、父・母や祖父母など年長者がいると、日々「真似る」ことができます。これができないと、「躾ける」必要があります。そうして、「作法」は代々継承されていきます。

子供が成長する際に、さまざまなことを学びますが、何より「食事の作法」から始まることを考えれば、食事の時間は貴重な「学び」のときとなります。

つまるところ、幼児教育の要諦は「食事の作法」にあるということができます。

posted by at 17:37  | 塾長ブログ, 国語力ブログ

美しい日本語を使えますか

長崎市五島町にある難関大学・医学部を目指す幼児教育・学習塾 羅針塾では、これからの日本を支える子供達にしっかりと学ぶ力をつけていって欲しいと考えます。

また、幼児から小学生・中学生、高校生の塾生と普段接していると、賢く成長してもらう為に、それぞれが正しい日本語を習得することを願っています。。その秘訣のいくつかを記している書物があります。「日本の礼儀作法」〜宮家のおしえ〜 竹田恒泰著(マガジンハウス)から一部引用してご紹介します。

美しい日本語」とは何か

まず、「美しい日本語」とは何であるかを考えてみたい。それはズバリ「正しい日本語」であるといってよいであろう。単に「正しい」といっても、「文法的に正しい」だけでなく、「時機が正しい」必要がある。「時機が正しい」とは「TPOが正しい」ということであり、例えば、目上の人に対しては敬語を用いることなどがこれに当たる。

つまり、「美しい日本語」は、知識さえあれば誰でも話すことができるのであるから、知らないと損をするのである。ただ、いくら知識があっても、それに慣れていないと、咄嗟(とっさ)に話すことはできない。だからまず知識を持ち、次にそれに慣れることで、誰でも「美しい日本語」の話し手になることができる。

逆に「正しい日本語」が話せないと、それは致命的であることを知っておいて欲しい。何故なら、「正しい日本語」を話せない人は、「正しい日本語」を話す必要がある場面をあまり経験していないと見なされてしまうからである。使うべきところで敬語を使えないと、品格を疑われる。「正しい日本語」が話せない人は、信用されないのである。

・・・・・竹田恒泰氏は、明治天皇の玄孫です。所謂、「宮家のおしえ」は、話し言葉、挙措動作、居住まい、等々、全人格的な一つの物差しを示しています。

私達は、物心がついた頃から、身近な父・母・祖父母・兄弟姉妹との会話の中、また身振り素振りの中で成長していきます。「学ぶ」は、「真似ぶ」が語源ともいわれ、「真に似せる」の意味から「真似(まね)」や「まねぶ」が生まれ「学ぶ」という語句がうまれたとも言われます。

そうすると、幼い頃からの環境が「正しい日本語」「美しい日本語」の出発点であるともいえます。幼児教育の基本は、「正しい日本語」を使う訓練から始まります。

posted by at 15:28  | 塾長ブログ, 国語力ブログ

国語教育の大事さ

長崎市五島町にある難関大学・医学部を目指す就学前教育(プレスクール)・学習塾 羅針塾では、これからの日本を支える子供達にしっかりと学ぶ力をつけていって欲しいと考えます。

再々、国語教育の大事さを当ブログではお伝えしていますが、何度でも訴え続けなければならないことであると痛感します。蓋し(けだし)、知・情・意の人間性を説明する言語として日本語が優れているからです。夏目漱石の「草枕」の冒頭の文、(参照:青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/776_14941.html))

山路やまみちを登りながら、こう考えた。
 に働けばかどが立つ。じょうさおさせば流される。意地をとおせば窮屈きゅうくつだ。とかくに人の世は住みにくい。
 住みにくさがこうじると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいとさとった時、詩が生れて、が出来る。
 人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣りょうどなりにちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。
 越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容くつろげて、つかの命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命がくだる。あらゆる芸術の士は人の世を長閑のどかにし、人の心を豊かにするがゆえたっとい。

・・・夏目漱石先生の名調子の文章は多くの人に愛されています。「に働けばかどが立つ。じょうさおさせば流される。意地をとおせば窮屈きゅうくつだ。とかくに人の世は住みにくい。」は、まさに知・情・意の関係を簡明に表現しています。

さて、前回の当ブログ(11月3日は「明治節」)でご紹介しました「歴代天皇の御製集」[公社]国民文化研究会・編著(致知出版社)の「刊行に当たってーー歴代天皇の御製としきしまの道ーー」公益社団法人国民文化研究会理事長 小柳志乃夫 氏の文をご紹介します。

ここに述べられている論は、我が国の歴史と国柄を明確に捉え、説明されています。

私たちの国日本は極めてユニークな国です。長い歴史を持つ国であり、その間に大陸の文化や西洋近代の文化を取り入れつつ、独自の文化を守り育んできた国です。その歴史を貫いて今も生きているわが国の大きな特徴が二つあると思います。

一つは、常に国の中心に皇室のご存在があったことです。万世一系といわれる天皇の系譜ー皇統ーは、皇祖神(こうそじん)、天照大神(あまてらすおおみかみ)にはじまり、初代の神武(じんむ)天皇から令和の百二十六代の今上天皇に至ります。今上天皇の父方のご祖先を辿るとそのまま神武天皇に至り、さらに神話の世界にさかのぼるわけです。日本書紀に示された皇紀(神武天皇即位の年を元年とする日本の紀元)では二千七百年近く、歴史考証でもほぼ二千年に及ぶ長い歴史をもちます。天皇は、今もご祖先の天照大御神を祭られていて、 たとえば十一月二十三日の新嘗祭(しんじょうさい)(「勤労慇謝の日」の由来)ではその年に取れたお米を神様にお供えし、自ら食されていますが、このお祭りは千四百年以上前から今に至ります。このような国は世界のどこにもありません。アジアや欧州諸国のように、侵略や革命による王朝の興亡が起きることもなく今日まで続いているのです。海外からの侵略がほとんどなかったのは島国という地理的条件も幸いしたでしょうが、天皇と国民が外国に多く見られるような権力的支配・被支配という関係であったなら、今日まで続くことはなかったでしょう。天皇と国民の間には、長い伝統を背景とした深い敬愛と信頼がありましたし、こうした国のあり方を守ってゆく意志を、天皇と共に私たちの祖先が持ちつづけてきたことが今日まで皇室が継続した背景であると申せましょう。

 もう一つの特徴は、国語の存在であり、特に和歌が詠みつがれてきたという点です。古代に大陸から漢字が入ってそれをもとに万葉仮名をはじめ仮名文字が作られ、文学がさらに発展することになりました。さらに近世の国学者の努力により、今私たちは、原文で記紀神話を読み、万葉の歌を味わうこともできます。わが国にはこうした多くの文学や文献資料が今に伝えられています。それは我が国が全般に平和であった何よりの証左です。中国では今でも革命による前代の歴史の否定が行われているように、言葉の断絶や歴史の断絡が仮にあったならば、こうした祖先のことを知る大事な機会が失われてしまいます。

・・・更に、

特に和歌の伝統は重要な意味を持ちます。平安時代前期末の『古今和歌集』(醍醐天皇の勅命による初めての勅撰和歌集。本書では「古今集」と以下略)は、それまで隆盛を誇っていた漢文学に対して、和文学の復興を告げたものといえましょうが、その「仮名序」に「やまと歌は、人の心を種としてよろづの言の葉とぞなれりける(日本の和歌は人間の心に感じたことをとあるように、和歌は心、祖先の心が現代の私たちの心にを種として、多くの言葉を茂らせてきた)」とあるように和歌は心にかんじたことをやまと言葉で定型の詩に整えたものです。祖先の歌を味わうと、祖先の心が現代の私たちの心によみがえってくる、そういう道が今も開かれているということです。

 

・・・①神話にさかのぽる皇室のご存在と、②和歌を中心とする豊かな国語文化、この重要な論点について我が国の学校教育ではほとんど触れられることはありません。むしろ、避けている印象が強い。このままでは、豊かな国語文化は衰微していくことになり、将来の日本人の豊かな人間性も育たないことになりかねません。

子供さんの将来を真剣にお考えのご両親には「歴代天皇の御製集」はお薦めです。

posted by at 16:44  | 塾長ブログ, 国語力ブログ

11月3日は「明治節」

長崎市五島町にある難関大学・医学部を目指す就学前教育(プレスクール)学習塾 羅針塾では、これからの日本を支える子供達にしっかりと学ぶ力をつけていって欲しいと考えます。

11月3日は文化の日という祝日ですが、本来は「明治節」という明治天皇を偲び、その御生誕日を祝日としたものです。そこで、「歴代天皇の御製集」[公社]国民文化研究会・編著(致知出版社)の明治天皇の御製をご紹介します。

明治天皇(第百二十二代)

第百二十一代・孝明天皇の第二皇子。京都にて御出生。慶応二年(一八六六)十二月、幕末の激動期に孝明天皇が崩御されると十六歳の若さで践詐(せんそ)された。慶応三年十月の大政奉還により、約六百八十年続いた武家政権は終止符を打ち、十二月「王政復古」の大号令により新政府の樹立、慶応四年(明治元年)三月には天皇自ら神々に「五箇条の御誓文」をお誓いになり、国家経営の基本方針を示された。同年にご即位の大礼が京都御所で行われ、明治と改元、七月には江戸は東京と改められ、翌年三月に皇居も東京に遷ることとなった。この間、新政府軍(官軍)と旧幕府勢力との間で壮烈な戊辰(ぼしん)戦争があった。廃藩置県をはじめ新政府による国内統一の政策が進められる中、明治天皇は国内を巡幸され、至る所で君民の交流が実現した。新政府の政策をめぐって各地に旧士族の乱が勃発したが、明治十年の西南戦争を最後に終結。内治外交への努力の中で、大日本帝国憲法の制定、国会の開設、不平等条約の改定などが行われると共に、明治天皇は国民道徳の必要を痛感され、明治二十三年には「教育勅語」を、また明治四十一年には「戊申詔書(ぼしんしょうしょ)」を発されたことは、明治天皇が国民の内面の育成にいかに心を尽くされたかを偲ばせる。‘欧米列強のアジア進出は我が国にとっての最大懸案であったが、朝鮮独立への対応をめぐって明治二十七年には日清戦争開戦。清国軍隊に勝利したにも拘(かかわ)らず、ロシアなどの三国干渉により、条約で得た遼東半島を返還させられた。ロシアの東方進出を阻み国家の独立を守るため、明治三十七年、ついに大国ロシアとの間に日露戦争勃発。わが国の総力を挙げた戦いで、旅順(りょじゅん)攻略戦、日本海海戦などに勝利をおさめ、世界から日本に対する賞賛の声が挙がった。近代日本の命運を担って偉大な指導力を発揮された明治天皇であったが、明治四十五年七月、全国民哀悼のうちに崩御された。明治天皇がそのご生涯を通じて、多忙なご政務の中で常にご自身の御心を見つめられ、お修めになったのが、「敷島(しきしま)の道(和歌)」であった。詠まれた御製の数は実に九万三千首を超え、歴代天皇の中でも随一である。

 

冬泉(ふゆのいずみ 明治十八年―一八八五ー御年三十四歳)

冬ふかき 池のなかにも ほとばしる 水ひどすぢは こほらざりけり

冬も深まって池に氷が張る厳しい寒さの中にも、ほとばしる噴水のひとすじだけは凍らないでいたことよ。

明治維新を迎えて十八年、国内外に多くの懸案が山積する中で、一切の責務を担われた明治天皇の御心を反映するような緊張に満ちた御歌である。厳しい寒さで凍り付いた池の中で、ひとすじの水がほとばしつている。水の勢いをご覧になりながら、困難を乗り越えてゆく力に励まされる思いをされたのであろう。自然を見つめつつも人生と一体化した見事な御作である。

四海兄弟(しかいけいてい 明治三十七年ー一九0四ー御年五十三歳)

よもの海 みなはらからと 思ふ世に など波風の たちさわぐらむ

〇よもー四方とは日本をめぐる東西南北をさし、「よもの海」とは世界中との意。

〇などー「どうして」の意。

日本を取り囲む世界の国々も、みな兄弟同胞と思っているこの世であるのに、どうして波風が立ら騒いて、このような戦争に至るのであろうか。

大国ロシアは着々と東方への侵略を進めていたが、我が国は存亡をかけてついに宣戦布告。この御製は、明治三十七年日露戦争の開戦直後の作とされている。我が国をめぐる国々との和平を常に願われていた明治天皇にとっては、ロシア王室との厚誼(こうぎ)もあり、無念の開戦であった。この御製は英訳されて世界中に感銘を呼び、特に米国大統領ルーズベルトの心を動かしてポーツマス講和会議仲介の一助となったと伝えられている。

posted by at 16:57  | 塾長ブログ, 国語力ブログ

国語力と言葉遣い

長崎市五島町にある難関大学・医学部を目指す就学前教育(プレスクール)学習塾 羅針塾では、これからの日本を支える子供達にしっかりと学ぶ力をつけていって欲しいと考えます。

その基本となるのは正しい言葉の用い方です。言葉の意味、話し手・聞き手の関係なども考慮して、正しく言葉を用いることができるようになるのは、幼児期からの日々の積み重ねが必要です。

さて、裏千家前家元15代 千玄室氏の随筆「一服どうぞ」が産経新聞(2023/9/3 )に掲載されています。筆者も常日頃、正しい言葉遣いができない人達が増えている現状を憂いていますので、是非参考にしてみてください。

https://www.sankei.com/article/20230903-JNU7LGGFSRPG7GAOA3NDLXLHOM/

茶道裏千家前家元15代(wikipediaより)

「やばい」という言葉 裏千家前家元・千玄室

「言葉」というものは生きている。だから時代によって使われ方も変化するし、意味が変わってしまうこともある。その上、今に始まったことではないが、若者から新語が生まれる。それらのほとんどは一時的なもので、大人が認識する頃には既に旬を過ぎ、若者からすれば、所謂(いわゆる)遅れた言葉となっている。その中でも世の中に広まり、誰が使っても違和感がなくなった言葉は辞書に編纂(へんさん)され、後世へと受け継がれていく。

たまに見るテレビ番組で、昨今気になる言葉がある。料理や菓子を食べた出演者が「やばい」と言っているのだ。どうやら、とても美味しいという意味で使っているようだが、本来の意味とはかけ離れてしまっている。彼らは本来の意味がわかっているだろうか。

やばいという言葉の語源は諸説あるが、一説によると、江戸時代までさかのぼる。牢屋の看守を「厄場(やば)」と呼んだことから、悪人仲間で、悪事を働き捕まりそうなことを「やばい」と言っていたものが、いつの頃からか不都合なことや危険なことを表す言葉に変わっていったというのである。

それが、さらに今の若者言葉へと変わっているのだが、私の若い頃は、普通の人がやばいという言葉を使うのも聞いたことがなかった。昔から言葉には言霊が宿るといわれるが、言葉は大切にしてほしいと思う。

・・・若者言葉として1980年代頃から、「やばい」は「格好悪い」の意味合いで用いられるようになったようです。更に、90年台からは、「凄い」「最高」の意味でも使われます。現在では、否定・肯定問わず用いられ、更に、意味もなく発する言葉として「やばい」という例もあります。

欧米の若者とも共通する日本の若者の「語彙」の貧しさの表れでしょう。テレビや映画の会話の場面で、繰り返し用いられる言葉に首を傾げるのは、教養や常識という物差しを当ててみれば当然です。若者であっても、賢明さがあれば、時と場合によって使い分けるはずです。

更に、千玄室氏は述べられます。

万葉集の巻一の二番目に私の好きな舒明(じょめい)天皇の御歌が載っている。

「大和(やまと)には 群(むら)山(やま)あれど とりよろふ 天(あめ)の香具山(かぐやま) 登り立ち 国見(くにみ)をすれば 国原(くにはら)は けぶり立ち立つ 海原(うなはら)は かまめ立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉島(あきづしま) 大和の国は」

大和は今の奈良県がある地域の旧国名で、かつて天皇もいらしたところだから、一見、奈良の歌のようだが、日本の成り立ちを伝える古事記では「蜻蛉島 大和の国」は日本に対する神話的呼称であり、五穀の豊かに稔(みの)る聖なる国を意味する。「うまし国」は「美し国」と字を当てることもあり、「うまし国ぞ 蜻蛉島 大和の国は」は「美しくすばらしい国だ、日本は」と読めるのである。

蜻蛉島の「蜻蛉」は言うまでもなくトンボのことだが、この虫を昔の日本人は「あきつ」と呼んだ。日本書紀には、神武天皇が今の奈良県の丘陵に上り、国を眺められた時に「狭い国だが、あたかも蜻蛉(あきつ)が交尾している形のように山々が連なり囲んでいる国だ」と言われたことが記されている。それで「蜻蛉島」「秋津洲」(いずれも「あきづしま」と読む)という言葉が生じたとされる。トンボは穀霊の象徴で、五穀豊穣の予兆であると考えられてきたから、「蜻蛉島 大和の国」という言葉からは、人々の豊穣への願いを読み取ることもできる。

日本人であるからには、このような豊かな言葉を正しく使っていってほしいものである。

 

・・・全く同感です。

千 玄室氏は、御歳百歳。ある講演会で、お話を聞き、握手して頂いたのが九十歳前半。変わらぬ若々しい文化教養人です。

 

posted by at 16:12  | 塾長ブログ, 国語力ブログ
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