受験も終わり、学年のまとめに
入っている羅針塾。
新学年に向けて始動中です。

まとめの学びと同時進行に国語力を磨く学びを
取り組んでいます。
日々、時間をつくり取り組んでいることです。

聞くこと、読むこと、書くこと、伝えること。

基本・基礎の学びを
一人一人のレベルに合わせて行なっていきます。
これは、年齢・学年に関係なく積み重ねの学びです。

一人一人と向き合う時。
ドキドキと緊張してしまう塾生さんも
しかし、人前で伝えることの練習です。
しっかりと想いを伝える。
失敗してもいい!
伝え方を考えて修正し次につなげる。
一つ一つ丁寧に。
これが学校で発表する時に結果として現れます。

「ハキハキ!元気!賢い子」

自信をもって日々学ぶ。
その積み重ねは
たくさんの考え、思い
失敗があります。
恐れることなく、なるほどね!
こうだね!楽しいね!と思えるように。

日々の国語力を磨く学びは
一人一人を賢くし、未来への道を切り拓いていきます。

先生どうぞ。と美味しい
チョコレートケーキを頂きました。
ありがとうございます。感謝申し上げます。

謹賀新年 

令和二年庚子(かのえ・ね)元旦 

干支(えと)の十二支勢揃い 中心が本年の子

長崎大学教育学部附属小学校受験まであと僅か。新暦でのお正月を迎え、氣持ちも新たに羅針塾学習塾・幼児教室では、正月特訓中です。幸い、温かな新春の日差しの中で、元氣に御挨拶から始まります。

防府天満宮の臥牛(レプリカ) 牛は天神さまのお使いとされ、臥牛が天神さまの鎮まる場所を表すシンボルとなっています。

塾生の中には、帰宅する際に必ず上掲の臥牛の頭を撫ぜていくものもあり、学問の神様菅原道眞公に肖(あやか)ろうと言う塾生の素直な氣持ちの表れといえます。

因みに、学問の神様菅原道眞公は全国的には、終焉(しゅうえん)の地である福岡県太宰府市の天満宮や京都市の北野天満宮が有名ですが、日本最初の天神様は山口県防府市の防府天満宮です。

防府天満宮http://www.hofutenmangu.or.jp/nenkan.htmlnのサイトから引用してご紹介します。

防府天満宮の御祭神は菅原道眞公。

平安の古、菅原家は学者の家として栄えておられました。その家柄の中で道真公は菅原是善の子として、承和12年(845)6月25日にお誕生になり、幼名を「阿呼」(あこ)と申されました。幼少より学問に優れ、僅か5歳の時、庭に咲いている梅を愛でられ、

「美しや紅の色なる梅の花 あこが顔にもつけたくぞある」

とお詠みになりました。

その後、18歳で文章生、33歳で文章博士になられ学識を高めていかれる一方で、誠実な政治感覚により時の帝の信任も篤く、高位高官へ昇られ、55歳の時に右大臣に任じられました。しかし時の権力者である藤原氏による讒言により無実の罪を着せられ、昌泰4年(901)1月25日、九州大宰府へ左遷されることになりました。その際御自宅の紅梅殿の庭にて

「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花 主なしとて 春な忘れそ」

と和歌を詠まれて、永く親しまれた梅の花に別れをお告げになりました。

左遷より2年の月日が経った延喜3年(903)2月25日大宰府にて無念の思いのまま薨去されました。そこで亡骸を牛車にお乗せし引かせたところ牛が伏せて動かなくなりました。人々は「きっとここに葬って欲しい」という道真公のお気持ちの表れであると思い、その地(今の太宰府天満宮)に葬りました。

薨去後、都では天変地異が続き左遷に関わった者達が次々に亡くなりました。人々は道真公の怨霊の仕業に違いないと畏れ、御霊魂をお慰めするため京都の地(今の北野天満宮)に神としてお祀りしました。
道真公と梅と牛にまつわる伝承は数多くあり、そのことから全国の天満宮では境内に梅が咲き誇り、牛は天神さまのお使いとされ、臥牛が天神さまの鎮まる場所を表すシンボルとなっています。

日本最初の天神様と銘記されているのが下掲の写真です。

銘は「扶桑菅廟最初」とあります(筆者撮影)。

防府天満宮は日本で最初に創建された天神さまです。

道真公は、九州大宰府への西下の途中、時の周防国(山口県)国司である土師氏(道真公と同族)を頼り、本州最後の寄港地となる防府の勝間の浦に御着船になり、「此地未だ帝土を離れず願わくは居をこの所に占めむ」(解釈:この港を出発すれば次はいよいよ九州であるが、この防府の地は天皇のいらっしゃる京の都とまだ地続きである。願わくはここ松崎の地に住まいを構え「無実の知らせ」を待っていたい。) と願い九州へと旅立たれました。

大宰府にて薨去されたちょうどその日、防府勝間の浦に神光が現れ、酒垂山(現・天神山)に瑞雲が棚引き人々を驚かせました。国司を始め里人たちは道真公の御霊魂が光となり雲となって「此地」に帰ってこられたと悟り、翌年の延喜4年(904)道真公の願われた通り、御霊魂の「居」を「この所」である松崎の地に建立して「松崎の社」と号しました。

道真公をお祀りした神社は全国に約1万2千社ありますが、当宮創建をもって「扶桑菅廟最初」日本で最初に創建された天神さまと称しています。

 

・・・就学前とはいえ、言葉の豊富な子供さんは、理解する力がありますから、指示行動も過たずに出来ます。そうでない場合は、本人も親御さんも一苦労も二苦労もすることになります。語彙力の差は、本試験の際に応用力となってあらわれます。

posted by at 14:39  |  国語力について, 塾長blog

様々な年代の子供さん達と接していると、その子の成長の為に家庭的な教育的背景が大きな力を持つことに氣づかされます。子供さんには、父母がありますが、そのまた父母、つまり父方・母方の祖父母があります。当然ですが、そのまた先祖となると、所謂(いわゆる)家系的に、子弟教育に対する熱意の濃淡が子供達にも投影されている様に思います。

子供の教育には、長い年月に亘る精神的・経済的な支援が必要です。歴史を振り返ると、日本人は他の民族と比較しても、子供を大事にするが故に、教育には熱心な民族といえます。日本が島国という恵まれた環境であり、地続きの国々と比べると、侵略される可能性は相対的に低いわけですから、長い年月に渡って、家系をつなぐことが出来ています。それ故に、言語も漢字は取り入れましたが、大和言葉を連綿とつないでいくことが出来ました。

有名な「最後の授業」(アルフォンス・ドーデの短編小説「月曜物語」の一編)には、国語を維持することの意義を示しています。

「最後の授業」のあらすじ(ウキペディアから引用https://ja.wikipedia.org/wiki/最後の授業

ある日、フランス領アルザス地方に住む学校嫌いのフランツ少年は、その日も村の小さな学校に遅刻する。彼はてっきり担任のアメル先生に叱られると思っていたが、意外なことに、先生は怒らず着席を穏やかに促した。気がつくと、今日は教室の後ろに元村長はじめ村の老人たちが正装して集まっている。教室の皆に向かい、先生は話しはじめる。

「私がここで、フランス語の授業をするのは、これが最後です。普仏戦争でフランスが負けたため、アルザスはプロイセン領になり、ドイツ語しか教えてはいけないことになりました。これが、私のフランス語の、最後の授業です」。これを聞いたフランツ少年は激しい衝撃を受け、今日はいっそ学校をさぼろうかと考えていた自分を深く恥じる。

先生は「フランス語は世界でいちばん美しく、一番明晰な言葉です。そして、ある民族が奴隸となっても、その国語を保っている限り、牢獄の鍵を握っているようなものなのです」と語り、生徒も大人たちも、最後の授業に耳を傾ける。やがて終業を告げる教会の鐘の音が鳴った。それを聞いた先生は蒼白になり、黒板に「フランス万歳!」と大きく書いて「最後の授業」を終えた。

・・・筆者は、小学校の教科書で「最後の授業」を学び、子供心に戦争で負けると教科書や言葉も変わるのだ、と強烈な印象を持ったことを覚えています。

さて、子供の教育です。

私達のご先祖は、幾多の困難を乗り越えながら、私達に生命を繋ぎ、教育も繋いできています。親御さん方が、今ある自分の境遇を考え、親や祖父母、そのまた先のご先祖様方に想いを馳せると、自らの子供を如何により良く育てていかなければならないか、が見えてきます。

塾生に、分かる限り家系図を調べてみたら、自分のこれからの志を見つけることができると思います、と伝えたことがあります。

そうすると、何かを感じた塾生は早速取り組みました。夏休みの宿題の一環として、家系図を作成したり、親御さんに質問したり・・・すると、将来の目標として、四代目を継ぎたいという塾生もあらわれました。

やはり、自分のルーツ(root:根、〔~s〕(人などの)根っこ、出身、出自、祖先)の一端が分かると、自分も次に繋げていく存在であることに氣付かされます。

結局、これが子供さんの強く学びたいという動機付け(motivation:自発性、積極性、動機を与えること)になります。つまり、親御さん方自身が、御両親や御祖父母のことを理解し、尊敬することが、子供さんの学ぶ意欲を増す原動力になっていくのです。

 

posted by at 22:36  |  国語力について, 塾長blog

長年子供達と接していると、知的レベルに変化があることに氣付きます。それは、文部科学省(旧文部省)の指導要領の改訂や、大学入試改革という名の入試制度の変更によって、より良い方向への改訂や改革ならば素晴らしいのですが、そうはなっていない現実があるからです。

その知的レベルの差、読解力の低下が顕著であることです。

その原因を、見事に抉(えぐ)っている書籍が有ります。

新井紀子先生の書籍

 

・・・新井紀子氏 東京都出身。一橋大学法学部およびイリノイ大学数学科卒業、イリノイ大学5年一貫制大学院を経て、東京工業大学より博士(理学)を取得。専門は数理論理学。数学以外の主な仕事として、教育機関向けのコンテンツマネージメントシステムNetCommonsや、研究者情報システムresearchmapの研究開発がある。
2011年より人工知能プロジェクト「ロボットは東大に入れるか」プロジェクトディレクタを務める。2016年より読解力を診断する「リーディングスキルテスト」の研究開発を主導。(https://researchmap.jp/arai_noriko/

日本の教育界を震撼させるであろう女性ではないでしょうか。

その提言を素直に受け止め、実践すると、日本の教育界の劣化を食い止めることができるかもしれません。

日本の子宝である子供達を救うことができるのは、本当の教育です。

そこで、筆者が常々懸念していたことを喝破している著述がありましたので、一部引用してご紹介します(是非、当該書籍を手にとってお読みいただくと、子供さんの教育の一助になると思います)。

「AIに負けない子供を育てる」新井紀子著 東洋経済新聞社発行 P.182〜

ある研究授業からのお話です。

2Bの世界

とてもよく練られた良い授業だったと思います。検討会でも概ね好評でした。

けれども、私は一つだけとても気になったことがありました。それは、生徒の使っていた鉛筆の多くが2Bだったことです。私が小学校に通っていた1970年代には、2BやBは低学年で使うものでした。書く量が増え、筆圧が上がると、HBに替えます。高学年になるとHを使う生徒もいました。2BやBではすぐに鉛筆の先が丸くなってしまい、6時間の授業のノートを書ききることができないからです。「書く量が減っているな」と直感しました。

・・・新井先生と同じ懸念をず〜っと筆者も持っていました。

個人的には、小学校の一年で2Bを使ったら、学年が上がるごとに硬度の高いHB、H、2Hと鉛筆を変えていた記憶があります。筆者の小学校の恩師は、厳しくも子供の心理をよく掴んでおられた先生でした。授業中は一切の私語はなく、先生のお話を聴く際は背筋を伸ばし、手を太腿の股関節間際に置き、先生の目をしっかりと見ることが必須でした。先生の板書の文字は達筆で、算数の図形も木製の三角定規を用い、素晴らしく上手なものでした。先生が書き終わるまで、その所作をしっかりと観察し、書き方をじっと観て、先生の許しが出たら、自分のノート(帳面と言っていました)に書き写します。その頃を思い出すと、あっという間の一限45分間でした。

実際、めあてである「図形を正しくならべよう」というたかだか11文字を写すのに、生徒の間でかなり時間差があります。こうした文章を写すときに、文単位で写せるか、文節単位(図形を、正しく、ならべよう)か、語単位か、文字単位か、それとも画数ごとかということは、後ろから見ていて、「頭の上げ方の回数」でほぼわかります。

画数ごとに頭をあげる生徒は学習障害を疑った方がいいでしょう。文字単位の生徒は、文を意味として把握できていない可能性があります。人は意味のない記号列は最大で7、8文字しか覚えることができないので、文で写せるか、文字単位でしか写せないかというところで、「図形を正しくならべよう」という目標が「意味」として頭に入っているか否か、大体の目安がつきます。

(中略)

検討会の最後の講評で、私は、「なぜ生徒の多くが4年生になっても2Bを使っているのでしょう。筆箱に入っている鉛筆の数から考えると、ノートをとらせる途中で芯が丸くなってしまうのでは?」と尋ねました。

鋭い指摘に、研究授業を行なった先生方の応えが驚きです。

すると、授業を担当した先生だけでなく、授業を参観していた他の先生方も、「ノートはあまりとらせないんです。プリントやワークシートを配布して、授業をさせることが多いので」と言います。「なぜ?」と尋ねると、「黒板を写させる活動はアクティブラーニングではなく、一方的な教え込みですから」とか「黒板を写させる時間がもったいない。それならば話し合いの活動に時間を割いたほうがいい」とか「電子黒板だと、コンテンツを次々に投影するので、ノートは取れないですから」と言います。

どうやら、黒板を写させると、写すのにかかる時間が生徒によって差が大きく、全員が写し終わるのを待っていると早く写し終わった生徒は飽きてしまうし、早い生徒に合わせると、ノートが白いままの生徒が出てしまうようでした。

疑問に思って、いろいろな自治体の小中学校ワークシートやプリントを集めてみました。それで、「アッ」と思いました。先生の手作りのものも業者によるものも、文章を書かせるものより、穴埋め形式のものが圧倒的に多かったのです。

これでは、黒板に書かれていたり電子黒板に投影されている文章を「文章として」読まなくても、キーワード検索でプリントを埋められてしまいます。そして、そのキーワード部分を覚えれば、テストでそれなりの点を取れてしまうではありませんか!

・・・筆者の懸念と同様のことを、新井先生は縷々(るる)述べられています。

所謂(いわゆる)「ゆとり世代」の少し前から、子供さん達のノートの筆記量が減っていることに、不安を感じていましたが、まさにそれを裏付けるような指摘です。

小学校高学年でも、軟筆(2B、Bなど)を使い、筆圧が低く、漢字の止め・跳ねもしっかり書けない子がどんどん増えていました。土曜日授業がなくなり、習字の授業がなくなり、「書く」ことの機会がどんどん減ってきたことが、読解力の減退につながってきたと思うのは筆者だけではないと思います。

文部科学省が全国の公立・国立の学校に導入を進めているICT(Information and Communication Technology 情報通信技術)にも懸念があります。

文部科学省が国・公立学校の教育現場において、パソコンやデジタルテレビを導入し、子共達の情報活用能力の育成を図るための「ICT環境整備事業」を展開していますが、これを進めれば進めるほど、読解力を削ぐことになりかねません。実際、国公立や私立の授業を参観する機会に感じることは、各種の高価な機器が子供達の教育に資するというよりも、先生方の効率的な授業運営の為の「道具」でしかないのでは、ということです。

世界に誇れる日本のかっての教育は、生徒児童の目をしっかり見ながら、それぞれの理解を授業中に確認し、それぞれに応じた教育指導をしていたことにある、と思います。ICT機器を用いた授業は、筆者にとっては、心に響かないプレゼンテーションを見ているかのようでした。

posted by at 17:33  |  国語力について, 塾長blog

国語力をつける大前提として片仮名をスラスラと読めることが必要です。現在の小学校教育では、片仮名を蔑ろにして平仮名から混じり書きの漢字へと進み、本当の国語力を付ける様にはなっていません。

さて、「片仮名」の文化的・歴史的な意義について述べてある著述、平泉澄(きよし)先生の「少年日本史」(P.185〜)から続きの引用です。

いきなり、言葉の用い方のお話が続きます。

太政官符というのは、太政官から出される命令の文書ですが、それは、「まさに何々すべき事」と題目をかかげて、それが單數ならば、之を受けては、「右」といい、その題目が複数である場合には、「以前」と之を受けるのです。單數に「右」といい、複数に「以前」と云って、決して混雜しないのを見ると、古い時代の頭脳の緻密さ、言語のきびしさが、想いやられるではありませんか。

昔の言葉、一定の理法のあったことは、たとえば、「無し」という言葉、上に「ぞ」があれば、「無き」となり、上に「こそ」があれば、「無けれ」となるによっても、分かりましょう。

古今集から例をとれば、

小倉山 峯立(みねた)ち馴(な)らし 鳴く鹿の 經(へ)にけむ秋を 知る人ぞ無き

は、「知る人無し」としても、意味は分かるのですが、それを強めて、「知る人ぞ」といえば、「無し」は「無き」と受けなければならず、もし「知る人こそ」といえば、「無けれ」とならねばならないのです。

・・・この後、平泉澄先生は、古今集から「係り結び」の歌の例を紹介されます。

殘りなく 散るめでた さくら花 有りて世の中 はての憂ければ

春の日の 光にあたる 我なれど かしらの雪と なるわびし

音羽山(おとはやま) けさ越えくれば ほととぎす 梢はるかに 今鳴くなる

山里は 冬さびしさ まさりける 人めも草も 枯れぬとおもへば

月見れば ちぢに物こそ 悲しけれ 我が身ひとつの 秋にはあらねど

戀(こひ)すてふ わが名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思ひそめしか

春の夜の 闇はあやなし 梅の花 色こそ見え 香(か)やは隠るる

かたみこそ 今はあだなれ これなくば 忘るる時も あらましものを

花の散る ことわびしき 春がすみ たつたの山の うぐひすの聲(こゑ)

春霞(はるがすみ) たつを見すてて 行(ゆ)く雁は 花無き里に すみならへる

あしびきの 山ほとどきす わがごと 君に戀ひつつ いねがてにする

暮るるかと 見ればあけぬる 夏の夜を 飽かずと 山ほとどきす

 こういう風に、かかりむすびの法則があって、少しも亂れていません。いや、是ほど難しい例を引き出すまでも無く、動詞の活用を考えれば、すぐに分かりましょう。

「行く」をとれば、明日行ば、行給ふ、行人、早行

「書く」ならば、文書ば、書終る、書子、大きく書

などと活用しましょう。

すべて是等を、どのように整理し、どのように説明したならば、國語の構造を明らかにし、人々に分かりやすくなるでしょうか。

もしも、五十音圖というものが無かったならば、これは非常に難しく、處置(しょち)がつかなかったでしょう。五十音圖があればこそ、何段活用など云って、之を整理し得るのです。國語の複雑にして、しかも美しい性質は、それは遠い遠い昔からあったでしょう。然し學術的に之を研究して、その本質を明確に理解し、その構造を明快に圖示したものは、前には無かったのです。それは何としても、五十音圖を待たねばならなかったのです。そして五十音圖が一たび作られると、それは國語の正しい姿を示すと共に、その正しさを維持する上に役立だったのです。

・・・このように説明していただくと、片仮名の五十音図の成り立ちがよく分かり、中・高生の時に学んだ現代国語や古典の文法など、筆者自身本当に表面的な理解であったことが分かります。当時は、恥ずかしながら機械的に暗記することに終始していました(懐かしくもありますが)。

人によっては、國語というもの、時代時代によって變(かわ)ってゆくものとして、流動變化を重く見る考(かんがえ)があります。然し、變化流動は、國語だけではありますまい。ほっておけば、禮儀(れいぎ)も亂(みだ)れ、作法も崩れ、道徳も忘られてゆくのです。その崩れやすい中に、規準を立て、理想を示す事が大切です。

國語の最も美しい形を平安時代に見、その正しい構造を五十音圖によって考え、言語を清く正しくする事が大切です。

 

・・・最澄(傳教大師でんきょうだいし)の門流、安然から明覺に至るまでの手による偉大な功績を、私達は尊重し、その恩恵に感謝しなければならない、と平泉澄先生は結ばれています。

posted by at 20:00  |  国語力について, 塾長blog
さらに記事を表示する

月別アーカイブ

長崎|羅針塾学習塾トップページ
PAGE TOP