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食べ方の作法は「思いやり」

長崎市五島町にある難関大学・医学部を目指す幼児教育・学習塾 羅針塾では、これからの日本を支える子供達にしっかりと学ぶ力をつけていって欲しいと考えます。

昭和三十年代(1945~65 )までの邦画(日本映画)では、名監督の小津安二郎、黒澤明、木下惠介などに多くの名作がありますが、その作中に出てくる女性の挙措動作、話し方、食事の作法は、日本女性らしい品性が表れています。一般の庶民であっても、「育ち」の良さはその姿に表れています。その時代から六十年以上経ちますが、現在の日本人はそれに比べると如何なものでしょうか。

さて、「日本の礼儀作法」〜宮家のおしえ〜 竹田恒泰著(マガジンハウス)に、作法はまず「食事」からという項があります。その中から一部引用してご紹介します。

食べ方の作法は「思いやり」

食事作法は、食事をする時の約束事である。国や地域によって食文化が異なれば、食具や食事の形式も異なるため、食事作法も異なるが、食事をするときの約束事という点では共通する。

ではなぜ約束事が必要かといえば、それは、皆が気持ちよく食事をするためである。したがって、食事作法は、他者を思いやる心、つまり他者を尊重する心がその心の根底にある。そして、他者とは、一緒に食事を囲む人を始め、もてなしてくれる亭主・料理人・給仕なども含む。例えば、「食事中に不潔な話をしないこと」などは最低限の約束事である。もし食事中に下(しも)の話をしたら、それを聞いて食欲をなくす人もいるだろう。だから、食事の席は「清潔」を是とし、不潔なものを持ち込んだり、不潔な話をしたりしてはいけないと決まっている。

無人島で一人で食事をするのであれば、どんなに無作法でも誰にも迷惑はかからない。奇声を上げようが、肘をついて食べようが、何の問題もない。ところが、もしそれが二人なら、そこには食事作法が求められる。一人の振る舞いによって、もう一人が不快な思いをしたら、食事が成立しなくなるかもしれない。だから、食事作法は、高級料理店のみならず、家族や友達との食事でも気をつけなくてはいけないのである。

私の育った家は、食事の作法についてはかなり厳しい方だったと思う。外食の時だけでなく、家で家族で食事する時も、行儀良く食べるように躾けられた。「家でちゃんとできなければ、外でちゃんとできるわけがない」というのが両親の考えだった。

この考え方に立つならば、たとえ無人島で一人で食事するときも、食事作法を重んじるべきである。確かに、食事作法に通じている人は、人目のないところでも急に崩れたりしない。まして、先述の食前感謝と食後感謝の作法は、大自然に感謝することであって、他者に見せるためのものではない。たとえ一人でもするべきである。食前感謝をして、自然の恵みに感謝する気持ちを抱きながら食事をしたなら、自ずと背筋は伸び、他者にも迷惑の及ばない慎ましい作法になるであろう。

・・・食事の約束事である食事作法の考え方、「他者を思いやる心」は、社会生活を営む上で、人と接する以上どんな場面でも必要なことです。そうすると、食事の作法を身につけることが、社会人としての交際の作法に通じるということです。

日本人が震災などに遭遇しても、「他者を思いやる心」で互いに助け合う姿が、世界の人々に賞賛されるのは、突き詰めると、普段から食事を通して幼いときから身につけている作法や心持ちが自然に表れるからでしょう。

posted by at 17:24  | 塾長ブログ, 国語力ブログ

食事を始める作法・終える作法

長崎市五島町にある難関大学・医学部を目指す幼児教育・学習塾 羅針塾では、これからの日本を支える子供達にしっかりと学ぶ力をつけていって欲しいと考えます。

日本人として、しっかりした礼儀作法の型を幼児期から身につけると、どんなときにも自然と対応できるようになります。やはり何事も、幼児期から始めると一生の宝となります。

「日本の礼儀作法」〜宮家のおしえ〜 竹田恒泰著(マガジンハウス)に、作法はまず「食事」からという項があります。その中から一部引用してご紹介します。

食事を始める作法・終える作法

日本人にとっての食事を始める作法(食前感謝)について述べていきたい。

食前と食後に、食事に対して一礼して「いただきます」「ごちそうさま」と述べる。もしくは、柏手(かしわで)を打って、あるいは手を合わせて同じように述べてもよい。柏手を打つのは神道式、合掌は仏教式である。

食事を始める作法は、大自然の恵みに感謝することをを中心とする。目の前にある食事そのものを神と観念し、その食材を通じて、その背後にある大自然を仰ぎ見て「尊い命を頂きます」という気持ちで「いただきます」と唱える。

食事を終える作法は、動作は、食事を始める作法と同じだが、人々の働きに感謝することを中心とする。目の前にある食べ終わった食前を見ながら、この食事を用意するのにどれだけ多くの人の働きがあったかを思い描き「人々の尊い働きに感謝します」という気持ちで「ごちそうさまでした」と唱える。このように、大自然の恵みと人々の働きに深い感謝の気持ちを抱いて、感謝の言葉を唱えようとすると、自ずと背筋が伸び、正しい姿勢になるであろう。

・・・・以上の食事の作法は、竹田恒泰先生曰く略式だそうです。この後の記述で神道式の正式な作法が述べられていますが、それは次回以降にご紹介します。

略式といえども、食前感謝・食後感謝を、食事ごとにしっかりと心に刻みながらすることは、精神の安寧につながります。子供のときから、落ち着いた気持ちで食事に臨むことは、精神的にも安定し、賢さに繋がる日々の挙措動作ではないでしょうか。

posted by at 18:20  | 塾長ブログ, 国語力ブログ

「いただきます」と「ごちそうさま」

長崎市五島町にある難関大学・医学部を目指す幼児教育・学習塾 羅針塾では、これからの日本を支える子供達にしっかりと学ぶ力をつけていって欲しいと考えます。

幼児教育の基本である躾はとても重要です。食事はその躾の「場」です。日々の朝食、昼食、夕食は単なる栄養を摂取する機会ではありません。その際の挙措動作によって、人の品性や人格が表れる以上、幼児期から正しい作法を身に付けておかなければなりません。

「日本の礼儀作法」〜宮家のおしえ〜 竹田恒泰著(マガジンハウス)に、作法はまず「食事」からという項があります。その中から一部引用してご紹介します。

「いただきます」と「ごちそうさま」

食事とは、「命を頂く儀式」であって、神聖なものである。食事はそれ自体が神事と考えてよい。さらにいえば、調理や稲作、そして酒造りなども神事そのものである。このように捉えてきた日本人は、「いただきます」と言って食事を始める。これは、元々は「あなたの命を頂きます」の意味で、大自然の恵みに感謝する言葉である。

他方、食後の「ごちそうさま」の言葉は、元の「ご馳走様」の文字を眺めればその意味が分かりやすい。自分のために走り回って食事を整えてくれた人の働きに感謝する言葉である。たとえ自分で料理したとしても、稲や野菜を育て、魚を捕り、塩を作り、酒を醸した人がいたはずであり、さらにいえば、調理道具や食器を作った人、食材を運んだ人、ガスを通した人など、大勢の人々の手を経なければ、たった一食の食事も成り立たない。私たちが何気なく口にしている一膳のご飯も、大自然の恵みの賜物であって、途方もないほど多くの人々の手が掛けられて、ようやく用意できるものである。

だから、古来「お米には神様が宿る」「米を一粒でも食べ残すと目が潰れる」などと教えてきた。「飯の喰い方のの汚い奴は出世できない」というのも真理を述べていると思う。そういう人は、物事に感謝できない人に違いない。

したがって、「いただきます」は自然の恵みに感謝する言葉で、「ごちそうさま」は人々の働きに感謝する言葉ということになる。日本人は太古の昔から、食事をする度に手を合わせて大自然の恵みに感謝してきた。

 

・・・・・食事の始まりに「いただきます」、終わりには「ごちそうさま」と唱えるのは、日本の家庭の食事風景には不可欠です。近来、外食の機会も多くなりましたから、公衆の場でも食事をすることになりますが、それとなく周囲を見ていると若い人たちも、食事の前にさりげなく手を合わせているのを見かけます。言葉は「言霊(ことだま)」ですから、「いただきます」「ごちそうさま」は、声に出すことが大事です。

家庭では、子供さんに「いただきます」「ごちそうさま」の意味合いをしっかり教え諭すと、一生の宝になるのは間違いありません。

posted by at 17:01  | 塾長ブログ, 国語力ブログ

食事の作法

長崎市五島町にある難関大学・医学部を目指す幼児教育・学習塾 羅針塾では、これからの日本を支える子供達にしっかりと学ぶ力をつけていって欲しいと考えます。

その子供達も、いずれ大人になり社会へ出ます。そうすると、社会のルールや常識、礼儀作法など、人としての有り様(あるべき姿)を様々な場面で問われます。その為にしっかり身につけるべき作法について、「日本の礼儀作法」〜宮家のおしえ〜 竹田恒泰著(マガジンハウス)から一部引用してご紹介します。

作法はまず「食事から」

箸に手を付けた瞬間その人の評価が決まる 知らないでは済まされない日本人の常識

およそ食事の作法は、自然の恵みに感謝すること、人々の働きに感謝すること、そして相手を尊重することの三点に尽きる。この要点を踏まえて、食事の作法の核心を述べていきたい。食事の作法は、ただ形だけを身に付けるのではなく、その意味も一緒に知るようにしなくては意味をなさない。作法の根底に横たわる「精神」を会得すれば、自ずと形も整うというものだ。何故そのような作法になっているかを考えれば、すべて感謝と尊重が元にあることがわかるはずである。

そして、食事作法こそが、日本の礼儀作法の根本といってもよいかも知れない。食事作法ができていなければ、いかに他の礼儀作法ができていても、何もできないのと等しい。逆に、食事作法さえできていれば、他の作法の欠陥を補うこともできる。

 

・・・食事は、乳児から幼児、そして少年・少女へと成長する際に、日に何度もします。したがって、日々「作法」を学ぶ機会があることになります。そうすると、家族で食卓を囲む際に、父・母や祖父母など年長者がいると、日々「真似る」ことができます。これができないと、「躾ける」必要があります。そうして、「作法」は代々継承されていきます。

子供が成長する際に、さまざまなことを学びますが、何より「食事の作法」から始まることを考えれば、食事の時間は貴重な「学び」のときとなります。

つまるところ、幼児教育の要諦は「食事の作法」にあるということができます。

posted by at 17:37  | 塾長ブログ, 国語力ブログ

美しい日本語を使えますか

長崎市五島町にある難関大学・医学部を目指す幼児教育・学習塾 羅針塾では、これからの日本を支える子供達にしっかりと学ぶ力をつけていって欲しいと考えます。

また、幼児から小学生・中学生、高校生の塾生と普段接していると、賢く成長してもらう為に、それぞれが正しい日本語を習得することを願っています。。その秘訣のいくつかを記している書物があります。「日本の礼儀作法」〜宮家のおしえ〜 竹田恒泰著(マガジンハウス)から一部引用してご紹介します。

美しい日本語」とは何か

まず、「美しい日本語」とは何であるかを考えてみたい。それはズバリ「正しい日本語」であるといってよいであろう。単に「正しい」といっても、「文法的に正しい」だけでなく、「時機が正しい」必要がある。「時機が正しい」とは「TPOが正しい」ということであり、例えば、目上の人に対しては敬語を用いることなどがこれに当たる。

つまり、「美しい日本語」は、知識さえあれば誰でも話すことができるのであるから、知らないと損をするのである。ただ、いくら知識があっても、それに慣れていないと、咄嗟(とっさ)に話すことはできない。だからまず知識を持ち、次にそれに慣れることで、誰でも「美しい日本語」の話し手になることができる。

逆に「正しい日本語」が話せないと、それは致命的であることを知っておいて欲しい。何故なら、「正しい日本語」を話せない人は、「正しい日本語」を話す必要がある場面をあまり経験していないと見なされてしまうからである。使うべきところで敬語を使えないと、品格を疑われる。「正しい日本語」が話せない人は、信用されないのである。

・・・・・竹田恒泰氏は、明治天皇の玄孫です。所謂、「宮家のおしえ」は、話し言葉、挙措動作、居住まい、等々、全人格的な一つの物差しを示しています。

私達は、物心がついた頃から、身近な父・母・祖父母・兄弟姉妹との会話の中、また身振り素振りの中で成長していきます。「学ぶ」は、「真似ぶ」が語源ともいわれ、「真に似せる」の意味から「真似(まね)」や「まねぶ」が生まれ「学ぶ」という語句がうまれたとも言われます。

そうすると、幼い頃からの環境が「正しい日本語」「美しい日本語」の出発点であるともいえます。幼児教育の基本は、「正しい日本語」を使う訓練から始まります。

posted by at 15:28  | 塾長ブログ, 国語力ブログ
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