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教科書に載らない歴史上の人物16 根本 博 その3

民進党の代表 蓮舫氏の二重国籍問題で話題の所謂「台湾(臺灣)」(現状の正式国名は中華民國)。
学校では政治が絡む時事的なニュースを取り上げることはなかなかありませんが、将来の日本を担う子供達にとっては、ニュースなどで疑問に感じることは、家庭でしっかり応えて頂きたいものです。
長崎市五島町の羅針塾 学習塾・幼児教室では、質問があれば、考える糸口を伝え、自ら解決できるよう導きます。

さて、教科書に載らない歴史上の人物16 根本 博 の戦後における活躍について、前提として台湾をめぐる歴史に触れつつ、ご紹介いたします。

明治二十七乃至八年戦役(日清戦争の正式名称※)(明治27年(1894)7月から明治28年(1895)3月)後、日清講和条約が締結され、日本領となり台湾には台湾総督府が置かれていました。

※戦争の正式名称・・・戦争名称は閣議で決められるものです。
日露戦争は「明治三十七乃至八年戦役」、第一次世界大戦は「大正三、四、五、六乃至七年戦役」、
太平洋戦争(国際法ではEast Asia war)は「大東亜戦争」といいます。
(戦後の教科書では、日本国の定めた正式の名称を使うことがありません。)

昭和20年(1945)日本の終戦に伴い、当時中国大陸を本拠地とした中華民国の統治下に入ります。
中国大陸では、蒋介石率いる南京国民政府と毛沢東率いる中国共産党軍との間で昭和21年(1946)には国共内戦が勃発。
ソビエト連邦からの大規模な軍事援助を受けた中国共産党軍が反攻に転じ、南京国民政府軍は各地で大規模な敗北を喫します。
敗勢を挽回できない南京国民政府が崩壊すると、蒋介石を中心とする国民党勢力の一部は、アメリカの援助を受けつつ、拠点を広州、重慶、成都を経て台湾島に移しました。

中国共産党軍は、台湾島を奪取する為、福建省沿岸に位置する金門島を巡り戦いを挑みます。
それを阻止せんとする蒋介石率いる国民党軍の劣勢を挽回する為に、根本博中将が身を賭して日本から台湾に密航をするという壮大なドラマが今回のお話です。

台湾金門島

金門島詳細

「戦神(いくさがみ)」と呼ばれた男

(さらに…)

posted by at 19:50  |  塾長ブログ

教科書に載らない歴史上の人物16 根本 博 その2

長崎市五島町の羅針塾 学習塾・幼児教室の子供達の中に、年相応の知識量や理解力以上の力を示す例があります。
共通することは、
目を見て話を聞いていること。
応答する際に「はい、いいえ」が言えること。

これは、普段のお母さんや家族との会話の影響が大きいと思います。
つまり、相手の話を聞き、何を問われているかを理解し、それに対する自らの答えを自分なりに伝えること、の訓練を日々しているか、です。
ある意味、お母さんと「大人の会話」をしているかのような遣り取りをすることです。
幼いからといって、幼児語を用いるのではなく、一個の男子、女子と会話するようにすることが肝要です。
つまり、幼くとも所謂「子供扱い」をするのではなく、イメージとしては成人した立派な男子、女子として是々非々で接する。すぐにはできなくとも、繰り返すことでどんどん成長していきます。

さて、教科書に載らない歴史上の人物の再掲(加筆)です。

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「支那には四億の民が待つ(馬賊の歌の一節)」と、戦前の日本人は支那の奥地や満州にも雄飛していました。
これは、日本人に限らず、欧米人やロシア人も同様です。自国民やその権益を守る為、各国の軍隊は国際法規や条約に則って利害のある地域に駐屯していました。

蒙古聯合自治政府内の張家口は北京の北西約300キロにありますが、張家口の引揚者たちがつくる「日本張家口の会」は、戦後六十周年の引き上げを記念して2005年に『内蒙古からの脱出』を編集。

「この命、義に捧ぐ」-台湾を救った陸軍中將根本博の奇跡 (門田隆将著 集英社)からの引用です。

陸軍中将 根本博

 

 つながれた命
 
 幼児を二人連れて、内地まで引き上げてきた当時二十五歳の早坂さよ子は、こんな体験談を載せている(一部抜粋)。

<張家口はソ連邦が近いのでソ連兵が迫って来るという話にも戦々恐々といたしました。五歳の女子と生後十ヶ月の乳飲み子を連れてとにかく、何とか日本に帰らねばと思いました。そのとき私は二十五歳でした。
五歳の女の子も何か特別のことが起こっていると解るらしく、しゃんとして自分の衣類の入ったリュックを背負い、子供用の布の袋をしっかり持ってくれました。

 駅へ着きますと貨物用の無蓋車が何両も連なって待っており、集まった居留民は皆それに乗り込みました。
張家口から天津迄、普通でしたら列車で七時間位の距離だったと思いますが、それから三日間かかってやっと天津に着くことが出来ました。
 途中、線路は何カ所も壊されていて少し走ると、すぐ止まり、線路の状態を修繕しながら進むのです。途中、列車が止まると近くの農民たちがいろいろと食料品を、持って売りに来てくれました。男性社員の方が会社の金庫から有りったけのお金を全部出して持ってきてくれましたので、食料品等を買い、皆で何とかお腹を満たしました。
 列車は「萬里の長城」にそって走るので、長城の上の要所要所に日本の兵隊さんがまだ警備に着いていて、皆で手を振りました。そして兵隊さん達よ、無事、日本に帰ってと祈りました。
 夏とはいえ無蓋車の夜は寒く、五歳の女の子は下痢をおこして、列車が止まると用をたしに何度も何度も線路へおりました。親子共に、辛いつらい思いを致しました。

 (北海道の)実家へ、やっとやっとたどり着きましたときには両親の顔を見るなり、今迄こらえていた涙が一辺に、どっと溢れて、大声でうわぁうわぁと泣きに泣きました。
 五歳の娘惠は翌日からストーブの前に座ったきり一切口をきかず、食事も何も食べようと致しません。
父が「惠ちゃん、何か食べたい物はないか・・・」と聞きますと小さな声で「お餅のつけ焼き」が食べたいというのです。
 父母達は敗戦の中、配給の、わずかな食糧で暮らしている時ですのに近所の農家の人から、何とか少しばかりの餅米を調達して来てくれて、土蔵から臼と杵を出して来てお餅をつき、孫娘のためにお醤油をつけたお餅のつけ焼きを作ってくれました。親達のありがたさをしみじみ感じました。娘の惠は毎日毎日三度三度そのお餅だけを食べ、次第に元気を取り戻して参りました。>

 兵士達の尊い命と引き換えに幼い命はこうしてつながった。

張家口関係図

昭和20年8月9日から始まったソ連との戦争。日ソ不可侵条約を一方的に破り、怒濤のように攻め込むソ連軍は、満州では蛮行の限りを尽くしていました。満州を守っていた頼みの関東軍は、ソ連の宣戦布告からわずか三日で「総退却」の事態に陥っていました。
日本陸軍北支那方面軍司令官・根本博中將は、専門の支那情報だけでなく、ロシア情報にも通じ、ソ連軍の本質や危険性を知悉(ちしつ)していました。
だからこそ、内蒙古の在留邦人四万人の命を助ける為に敢然と武装解除を拒絶し、ソ連軍と激戦を展開、そしてその後、支那派遣軍の将兵や在留邦人を内地に帰国させる為に奮闘努力したのです。

根本 博とは  (さらに…)

posted by at 18:13  |  塾長ブログ

教科書に載らない歴史上の人物16 根本 博 その1

学習する際の「音読の効用」については皆さんよくご存知と思います。
しかし、これを日々実践するとなると如何でしょうか。
学校であれ、家庭であれ、正しい呼吸法に基づいて大きな声で、句読点に留意し、内容に応じて強弱や抑揚を工夫しながら読む。
長崎市五島町の羅針塾 学習塾・幼児教室は、「正しい音読」を日々実践しています。
当塾が「正しい音読」を重視するのは、有名無名を問わず私達の先人の幼少期には、古典の音読が必須だったからです。

さて、教科書に載らない歴史上の人物の再掲(加筆)です。

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平成22年4月30日出版の「この命、義に捧ぐ」-台湾を救った陸軍中將根本博の奇跡 (門田隆将著 集英社)は、日本人の素晴らしさを伝える名著と言えるのではないでしょうか。

この命、義に捧ぐ~台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡

日本の近現代史については、再三伝えているように、真実の歴史が知らされていません。
その典型的な例が、陸軍中將 根本 博の偉業ではないでしょうか。

●大東亜戦争終戦時(昭和20年8月15日)には、モンゴル(当時は蒙古聯合自治政府)に駐屯していた駐蒙軍司令官として、終戦後もなお侵攻を止めないソ連軍の攻撃から、蒙古聯合自治政府内の張家口付近に滞在する邦人4万人を救った。

●復員後昭和24年(1949)台湾へ渡り、金門島における戦いを指揮して、中国人民解放軍を撃破、現在に至る台湾の分離確定に寄与した。

上記の事実は、一般には知らされることがほとんどありませんし、学校の歴史の授業でまるで封印されたかの如く語られることはありません(おそらくご存知の先生方もどれくらいいらっしゃるか?)。

・・・(前略)
日本列島の広さに匹敵する広大な担当区域を持ちながら、駐蒙軍は師団が二つと混成旅団が二つしかない小軍に過ぎない。既に逼迫する戦況に、駐蒙軍からは戦車師団と一混成旅団が多方面の作戦に連れ出されたまま帰って来ず、兵力の不足は覆い難いものになっていた。
 だが、軍司令官たる根本が弱音を吐くわけにはいかない。
 兵力こそ劣っているものの、根本の部下たちは、宣戦布告してなだれ込んできたソ連軍に立ち向かい、陣地への侵入をまだ一歩も許していなかった。それは根本司令官の叱咤に応えた部下たちの奮闘に他ならない。
 しかし、いよいよ敗戦が決定し、陛下自らの「終戦の詔勅」が発せられたことによって、外地にある日本軍はただちに「武装解除」を行わなければならなくなってしまったのだ。
 この時、根本には、ある覚悟がすでにできていた。

 「一切の責任は私が負う」

 マイクの前に立った根本は、エ、エンと、癖になっている咳払いをひとつすると、深く域を吸い込んでこう語り始めた。
「日本は戦争に敗れ、降伏いたしました。皆さんは今後のことを心配していると思います。しかし、我が部下将兵たちは、皆健在であります」
それは口調こそ穏やかなものの、断固たる決意が漲る声だった。
「わが軍は、私の命令がない限り、勝手に武器を捨てたり、任務を放棄したりするものは一人もおりません。心を安んじて下さい。疆民および邦人は、決して心配したり騒いだりする必要はありません」
 噛んで含めるような言い方だった。そして、根本はこう続けた。
「私は上司の命令と国際法規によって行動します。疆民、邦人及び我が部下等の生命は、私が身命を賭して守り抜く覚悟です。皆さんには軍の指導を信頼し、その指示に従って行動されるよう、強く切望するものであります」
 あなた方の命は私が身命を賭して守り抜く—司令官自らの声が、蒙疆地区のすみずみまで流れたのである。それは、敗戦を告げる「玉音」の次に放送されたものだっただけに、尚更、インパクトが強かった。
 根本はまず住民の間に動揺が走り、パニックが生じるのを真っ先に防いだのである。軍司令官決意のその放送は、全蒙疆地区に散在していた日本人たちに、どのくらい頼もしく、嬉しく響いただろうか。

2に続く

 

posted by at 12:44  |  塾長ブログ

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