‘ 国語力ブログ ’ カテゴリー

勉強する 學問をする

長崎市江戸町(令和6年7月に移転)にある難関大学・医学部を目指す幼児教室・学習塾 羅針塾では、日頃から国語辞典を用いて漢字、熟語の意味について理解するよう指導します。

ある日、小学校低学年の塾生に「勉強する」「學問學問をする」の意味合いを問うてみました。すると皆首を傾げます。

そこで、漢字を「勉」「強」、「學」「問」と分けて、それぞれの音読み・訓読みを聞いてみます。

すると、なんとなく分かったような、分からないような顔をします。

しかし、「学問」の「学」の字が「學」となっていて、知らない文字です。

不思議そうな顔を見ながら、説明を始めます。

「勉強」の文字は、「勉める」(つとめる:力を尽くしてあることをする)プラス「強いる」(しいる:相手の気持ちを無視して無理にさせる、無理に押し付ける)だよね。

結局、「誰かに押し付けられて、力を尽くす」という意味になるね。

一方の「學問」は、ツカンムリの「学」ではない、本来の「學」を用います。この画数の多いカンムリは、もと、子供に世の中のしきたりの手ぶりを習わせることをいう。ひいて、ものを学ぶ意、なんです。それプラス、「問」は「問う」(とう:知りたいことを尋ねる、質問する)ですから、「知りたいことを尋ねて、ものを学ぶ」の意味になります。

さて、君たちは「誰かに押し付けられて」か、または「知りたいことを尋ねて」のどちらで「学びたい」かな?

・・・・・・・その答えは自ずから分かりますね。

posted by at 18:02  | 塾長ブログ, 国語力ブログ

何故、難関大学又は医学部を目指すのか。

長崎市五島町にある難関大学・医学部を目指す幼児教室・学習塾 羅針塾では、これからの日本を支える子供達にしっかりと「学ぶ力」をつけていって欲しいと考えます。

当塾では、近い将来「難関大学・医学部」を目指すことができる塾生を育てること、が目標です。

なぜそのように考えるようになったか。

患難辛苦(かんなんしんく:災難や困難に当たって、悩み苦しむこと)を与え給え、との気概を持った若者が、必ず存在すると考えるからです。

大東亜戦争後、79年が経とうとする中、震災を直接体験しない限り、多くの国民、子供達は辛抱することの大切さ、有難さを考えることはなかなか有りません。

しかし、歴史に興味や関心を持つ子供達は、日本の数多(あまた)の先人達は、どのように困難や苦しみを乗り越えてきたのだろうか、と考える力が有ります。

そうであれば、「もし、こうなったとき、どう対処するべきか」というsimulate(模擬行動、想定行動)することが出来る力もあるということになります。

文部科学省が文部行政の中で声高に主導しなくても、主体的、自律的、自立的に学ぶ力をもった子供達が、将来の日本を支えて行くと考えられます。

主体的、自律的、自立的に学ぶことが出来る子供達は、「学ぶ」ことに忌避感や嫌悪感を持つことはありません。むしろ、わかるまで、理解できるまで、「学び」続けることを厭(いと)いません。

それを支え、勇気付けることが出来る立場にあるのが、所謂(いわゆる)「先生」です。

そうであれば、安易な道、楽な道を辿って「大学進学」する「他力本願」では無く「自力本願」で、敢えて苦難の道へ進むことでの成長を促すべきではないでしょうか。

そして、自らの力で艱難辛苦を乗り越えて成長出来る機会が、難関大学・医学部への挑戦だ、と指し示す。敢えて、挑戦する意義を説くべきと考えます。

これを乗り越えた体験は、その子供達が更なる苦難に巡り合っても乗り越えることが出来るし、「世の為、人の為」に尽くす人物になって行くことでしょう。

 

posted by at 15:43  | 塾長ブログ, 国語力ブログ

子供の喜び 親の喜び

長崎市五島町にある難関大学・医学部を目指す幼児教室・学習塾 羅針塾では、これからの日本を支える子供達にしっかりと「学ぶ力」をつけていって欲しいと考えます。

当塾では、近い将来「難関大学・医学部」を目指すことができる塾生を育てること、が目標です。

なぜそのように考えるようになったか。

「ときは世につれ、世はときにつれ」と申しますが、変わらないものは、親が子の幸せを願う心です。

日本人が、おそらく遥か遠い昔から、子を慈しむ、子の幸せを祈る、というのは変わらない事実です。

親がどれほど財産を残そうとも、どれほど地位を残そうとも、その子が自ら生き抜いていく力を身につけなければ

泡沫(うたかた)の泡(あわ)の如し、です。

「実語教」に、

山高きが故に 貴からず (やまたかきがゆえに たっとからず)

樹有るを以て 貴しとす (きあるを もって たっとしとす)

人肥へたるが故に 貴からず (ひとこえたるがゆえに たっとからず)

智有るを以て 貴しとす (ちあるをもって たっとしとす)

富は是 一生の財 (とみはこれ いっしょうのざい)

身滅すれば 即ち共に滅す (みめっすれば すなわち ともにめっす)

智は是 万代の財 (ちはこれ ばんだいのたから)

命終われば 即ち随って行く (いのちおわれば すなわち したがって いく)

玉磨かざれば 光無し (たまみがかざれば ひかりなし)

光無きをば 石瓦とす (ひかりなきをば いしかわらとす)

人学ばざれば 智無し (ひとまなばざれば ちなし)

智無きを 愚人とす (ちなきを ぐにんとす)

倉の内の財は 朽つること有り (くらのうちのざいは くつることあり)

身の内の才は 朽つること無し (みのうちのざいは くつることなし)

千両の金を 積むと雖も (せんりょうのこがねを つむといえども)

一日の学には 如かず (いちにちのがくには しかず)

 

・・・正に、実語教に書かれている通りです。

実語教は平安時代から明治初期にかけて普及していた教訓です。

「一日学ぶことは、千両の金を積むよりも価値がある」

これに気付くことができれば、「学ぶこと」の方向性が決まります。

実語教 その一

posted by at 15:34  | 塾長ブログ, 国語力ブログ

目標をしっかり掴む

長崎市五島町にある難関大学・医学部を目指す幼児教育・学習塾 羅針塾では、これからの日本を支える子供達にしっかりと学ぶ力をつけていって欲しいと考えます。

当塾では、近い将来「難関大学・医学部」を目指すことができる塾生を育てるのが目標です。

さて、その為のよすがとして、当ブログで度々ご紹介しています石井式漢字教育指導法で著名な石井勲先生が松下政経塾で昭和57年から3年ほど行われた「大学」の講義をまとめた書「初めて読む人の『大学』講座」(石井勲著 致知出版社)から、引用してご紹介します。

目標をしっかり掴む

止まることを知って而(しか)る后(のち)に定まること有り。定まって而る后に能(よ)く静かなり。静かにして而る后に能く安し。安くして而る后に能く慮(おもんばか)る。慮って而る后に能く得(う)。

まず究極の目標・理想というものを掴むということを確認する。それが「止まることを知る」ということです。認識すること、その究極の目標を捉えるということです。そうすると「定まること有り」。つまり、心がが安定するわけですね。迷いがなくなる。ああしようかどうしようかと迷っているのは目標がないからです。目標がはっきりと掴めていないからです。

皆さんだって究極の目標を掴まえておれば迷いはないわけです。迷うということはつまり、究極の目標がわかっていないということ。「止まることを知る」というのは、そういうことです。目標が掴めれば迷いがなくなるから安定するのです。

定まって而る后(のち)に能(よ)く静かなり。」静かというのは動揺しないということ。自分では安定していたつもりでも、何かちょっとした事件があったりすると「はてな?俺はこんなことでいいんだろうか」なんてグラグラするのは、心に動揺があるということです。これは結局、安定していないということです。安定すれば、つまり目標がちゃんと掴めて、迷いがなくなって、心が安定すれば、何があったって動揺することがなくなる。

静かにして而る后(のち)に能(よ)く安し。」とは、本当に迷いなく、一途に目標に突き進んでいくことができる。「定まる」とか「静か」とか「安し」というのは、実をいうと大体みんな同じことです。迷いがなくて、少々のことがあっても、心が動揺しないという状態、それができて「而る后(のち)に能(よ)く慮(おもんばか)る。」というわけです。

物事を考える場合には、ちょっとしたことで動揺するような時期には、いくら学問をしても深まりません。この「慮」という字は学問を深める。つまり大いに思考を重ねるというという意味です。「慮」という時は、虎冠に「思う」という字がついていますように「思考する」ことです。十分な思考というものは、心に迷いや動揺があってはできないわけですね。心に迷いなくしっかりと定まれば、自然と深い考察ができる。そうすれば「能(よ)く得(う)。」で目的を達することができるというんです。

 

・・・私共の塾の基本は、「自主・自立 自ら律して学ぶ」ことを身に付けることです。

これを、十歳を越える前に日々の習慣付けにしていきたいと考えています。蓋(けだ)し、幼児期から年齢を経ると、学ぶこと努力することを厭い(いとい:嫌と思う)がちになり、安易に流れてしまうからです。それが経験的に、十歳前と後の境目にあると考えています。

真面目に取り組むことを尊重する人達と、足を引っ張るマイナスな人達はいつの時代も併存し、世の中ではどちらかというと後者の人達が大多数です。

我が子を人かどの人物に育て上げるためには、周囲の意見にとらわれず、純粋に我が子にとって何が必要であるかを見極める親の識見(物事に対する正しい判断・考え)が必須です。

以上、羅針塾が考える三歳児くらいから始まる幼児教育と、それに連続する学びの重要性を取り上げました。

石井勲先生の目標をしっかり掴む」とは、「自主・自立 自ら律して学ぶ」ことを身に付けることが前提であると考えます。

 

posted by at 15:37  | 塾長ブログ, 国語力ブログ

言葉遣いは品格を決定する

長崎市五島町にある難関大学・医学部を目指す幼児教育・学習塾 羅針塾では、これからの日本を支える子供達にしっかりと学ぶ力をつけていって欲しいと考えます。

さて、

「言葉は気品の泉源なり」というコラムが「日本の礼儀作法」〜宮家のおしえ〜 竹田恒泰著(マガジンハウス)に、論考がありますので、引き続き引用してご紹介します。

「言葉は気品の泉源なり」

「言葉が変われば人生が変わる たった一言で一目おかれる魔法の言葉とは」

(前略)

言葉遣いは、使い手の品格を決定付ける重要な要素であることに疑問を挟む人はいないだろう。先に箸の上げ下げについて述べたが、それと同様、たかが言葉されど言葉、言葉を変えるだけで人生が変わるなら、美しい日本語を取得しない手はない。

階級社会の英国では、 (中略)

いくら外見を上品に装っても、言葉を変えない限り、簡単に見破られてしまう。外見を装うのは比較的簡単なことだが、言葉を変えるのは、よほど努力しないといけない。

しかし、幸い日本は英国のような階級社会ではないため、アクセント一つで先祖代々の職業を判断されることはない。日本はだいぶおおらかである。誰もが一目を置くような「美しい日本語」を話せるのは、皇族などに限られるわけではない。日本語の正しい知識を持ち、少々訓練をすれば、誰でも「美しい日本語」の使い手になれるのである。

・・・確かに、公共の場や公共交通機関を利用していると、「ヤバイ! ヤバくない!まじぃ、信じられない」などという言葉を頻繁に耳にします。

その場にいても、そのような言葉遣いをする人の顔をふと見てしまうぐらい、別世界の言葉であるように思えます。

「言葉は世につれて」変化するものですが、本来の言葉の意味合いとは違う意味で用いられると、さすがに違和感があり、そのような言葉遣いをする人達の家族の背景はどのようなものだろうかと、要らぬ世話ですが考えてしまいます。

子供さんでも正しい言葉遣いをしていると、その育ちの良さを感じます。

日本人は、代々家族の良き有り様を繋いできた民族です。「品」の良し悪しは、誰しもその社会的な地位に限らず、大事にしてきた根本であると考えます。

posted by at 15:50  | 塾長ブログ, 国語力ブログ
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