長崎市江戸町にある難関大学・医学部を目指す幼児教室・学習塾 羅針塾では、学びの初めは「素読」から始まります。「素読」とは?というお母さん方がほとんどではないでしょうか。「素読」とは、意味を考えないで文字だけを声に出して読むこと。
言葉の意味は年齢にもよりますが、幼児にとっては難関です。親や周りの大人から、繰り返して聞いているうちに理解していきますが、最初は物の名前や人の名から覚え始めていきます。
従って、一見「修身」「論語」などを「素読」するなど荒唐無稽と感じるかもしれませんが、これが不思議な効用をもたらすのです。
さて、「『大学』を素読する」から少しずつ本文をご紹介致します。
詩に曰わく、穆穆(ぼくぼく)たる文王、於(ああ)緝熈(しゅうき)にして敬止(けいし)すと。人君と為(な)りては仁に止(とど)まり、人臣と為(な)りては敬に止(とど)まり、人子(じんし)と為(な)りては孝(こう)に止(とど)まり、人父(じんぶ)と為(な)りては慈(じ)に止(とど)まり、國人(こくじん)と交(まじわ)りては信に止(とど)まる。
(現代語訳) 詩経(文王篇)に「深淵な風格のある文王は、ああ常に変わらず明るくて、敬み深くゆったりとしている」とある。そのように君主となっては仁政を施し、臣下となっては上を敬い自ら敬しんで業務に精励し、子となっては只管(ひたすら)孝行を励み、父となっては慈愛を旨とし、国人とは互いに信(まこと)を以って交わるべきである。
詩に曰わく、彼(か)の淇(き)の澳(いく)を瞻(み)れば、菉竹(りょくちく)猗猗(いい)たり。斐(ひ)たる君子有(あ)り、切(せっ)するが如く磋(さ)するが如く、琢(たく)するが如く磨(ま)するが如し。瑟(しつ)たり僴(かん)たり、赫(かく)たり喧(けん)たり。斐(ひ)たる君子有(あ)り、終(つい)に諠(わす)るべからずと。切(せっ)するが如く磋(さ)するが如しとは、學を道(い)うなり。琢(たく)するが如く磨(ま)するが如しとは、自(みずか)ら修(おさ)むるなり。瑟(しつ)たり僴(かん)たり恂慄(じゅんりつ)なり。赫(かく)たり喧(けん)たりとは、威儀(いぎ)なり。斐(ひ)たる君子有(あ)り、終(つい)に諠(わす)るべからずとは、盛徳至善(せいとくしぜん)、民の忘るる能わざるを道(い)うなり。
(現代語訳) 詩経(衛風淇(き)澳(いく)篇)に「かの淇水(きすい)のほとりを見ると緑の竹がみずみずしく茂っている。そのように教養豊かな君子がいる、それは丁度、骨や象牙を切り、丁寧にやすりをかけてなめらかにし、石や玉を散りばめて砂で磨け上げるようなものである。おうようで、ゆったりとし明るくて朗らかな、教養のある人物は一度会えば生涯忘れることができない。切するが如く磋するが如しというのは厭(あ)くことなく学び続けることであり、琢するが如く磨するが如しというのは、自ら修養して徳を積むということである。瑟(しつ)たり僴(かん)たりというのは、おうようでゆったりとしていながら、人はどことなくおそれを感じる。赫(かく)たり喧(けん)たりとは、どことなく立ち居振る舞いに威厳があっていつまでも忘れられない。徳高く至善に止まる文王武王の風貌を民は長く忘れることができないのを言ったのである。
・・・「切するが如く磋するが如し」にある、「切磋(せっさ)」は角(つの)の細工をするのに骨などを刀で切り、やすりでみがくこと。「琢するが如く磨するが如し」にある、「琢磨(たくま)」とは、宝石を打って形を整え、砥石(といし)などで磨きをかけること。いずれも長い期間をかけて磨き上げ立派な作品にすることを言います。
勉学に例えれば、「切磋」は厭くことなく学び続けること、「琢磨」は自ら修養努力して学問と徳を積むこと(学徳)
子供さん達が幼児期から学び始め、長い人生を歩む際に、学徳(学問と徳行:道徳に適った行為)を重ね「世の為人の為」になる人物になって行くことは、親御さんからすると「子育て冥利」に尽きるのではないでしょうか。