何故、「学ぶ」のか 1

長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室 http://rashinjyuku.com/wp では、塾生が「死ぬまで学び続ける姿勢を保つ」大人に成って欲しいと念じています。と申しますのは、「勉強」と「学び(学習)」とは、字義に差があるからです。文字通り「勉強」は、「強いて勉める」。「学習」は「習って学ぶ、学んで習う」と、ニュアンス(nuance:言葉などの微妙な意味合い)が異なります。

さて、面白い記事が目に付きました。「何故勉強が必要?」子供への模範回答(https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180512-00025119-president-life)(President Online 5/12(土))

引用してご紹介します。

この季節、「なぜ勉強をしなければならないのか? 」という根源的な問いにハマる中高生が少なくない。そう子供に問われたとき、親としてどう答えればいいのだろうか。「いい大学にいくためだ」などと答えれば、子供は不登校になりかねない。3つの「模範解答」を紹介しよう――。

■子供に「なぜ勉強をしなければならないのか? 」と問われたら

筆者は仕事柄、中高生と話すことが多い。すると毎年、5月の大型連休後に、いわゆる「五月病」の症状に悩む生徒に出くわす。新学年、新学期の新しい環境への適応がうまくいかずに心身に不調が出てくるのだ。その中には「なぜ勉強をしなければならないのか? 」という“根源的な悩み”にぶち当たってしまう子がいる。

今回は、そういう思春期特有の悩みを持つ子供を3つのタイプに分け、親にできることは何かを探ってみたい。

【1:「秀才煮詰まりタイプ」へのアプローチ法】

ある時、東京大学合格者数ベスト10に入るほどの進学校に通う首都圏の私立中学生にこういう話をされたことがある。

「勉強をやる意味がわからないんです……。学校を辞めたい……」

会社役員である父親にそう告げたところ、その子の父親はこう返したのだそうだ。

「オマエは『駕籠(かご)に乗る人、担ぐ人、そのまた草鞋(わらじ)を作る人』という言葉を知っているか?  オマエは車で言えば、どの座席に座りたいのか、よく考えろ」

つまり、その父親は息子にも自分のように運転手付きの車の後部座席に乗る立場の人間になってほしいのだ。そのために偏差値の高い難関大学に行き、優良企業に就職しろという希望を持っているようだった。

いろいろな世の中の矛盾や理不尽に気が付いていく中で、その進学校の中学生は「勉強をやることは当然」と迫ってくる親や学校に強烈な反発心を持ってしまったのだろう。

残念ながら、その後この中学生は不登校に陥り、併設高校へは進学しなかった。父親の落胆ぶりは相当なものだったが、これは“秀才煮詰まり”タイプへの誘導を親が間違えた結果だと筆者は思っている。

優秀な子供が勉強する目的を見失った時に、大人が「試験のため」「知名度の高い大学へ行くため」「裕福な生活をするため」と言って丸め込もうとすると、親の期待とは正反対のところに着地するケースは少なくない。

そうした大人の意見は、幸せに至るひとつの“手段”であって、人生の“真の目的”ではないから子供の疑問解消には至らないのだろう。

では、このタイプの子供にはどうアプローチすればよいのだろうか?

・・・如何でしょう。親の思いと異なり、賢い子供さんに、親の価値観を強いるとパンクしてしまい、ドロップアウト(dropout:脱落、抜け出すこと、没落)してしまう例です。同学年の子供さんでも、それぞれの子供さんの生年月日や、家庭環境によっても違いがあるのですが、姿・形は親に似ていても、考えや思いは、親とは全く別物であるという根本を理解しておかなければなりません。

■「なぜ勉強が必要か」こじらせ中学生に効くコトバ

彼らは非常に賢く、また繊細なので、親が功利的な答えを下すより、子供自身にあえて問いかけたほうが「悩み」は解決の方向へと進んでいくと思われる。

例えば、以下のような話をして「君はどう思う? 」と問いかけてみるというのはどうだろうか。

筆者は多くの私立中学・高校を訪問し、校長や担当責任者に学校の教育方針などを聞いている。先日、南山大学(名古屋市)の前学長で、いまは聖園女学院中学・高校(神奈川県藤沢市)の校長のミカエル・カルマノ神父と面会した際、「人はなぜ勉強しなければならないのでしょう? 」と問いかけてみた。

神父は次のように答えた。

「勉強は自分の窓を開けるということです。学ぶことで、今まで見ていたものとはまた違う何かを見ることになります。視界を広げるために学ぶのです。例として、『なぜ外国語を学ぶのか』を考えてみましょうか。日本語で『写真を撮る』という言葉がありますね。これは英語では『take a picture』、写真はテイクするものになります。しかしながら、ドイツ語では『写真を作る』と表現するのです」

▼大人の論理・常識で丸め込もうとするのは逆効果

神父は、同じ行為・現象でも“とる”と“作る”という言葉が持つ背景やイメージが異なると説明する。その上で、こう語るのだ。

「だからこそ、物事はその国の文化を持つ言葉でオリジナルを見ないといけません。真実を見るためには、そのものが何かを追究しないといけません。ですから、学校では他国の言語を学ぶという授業がなされるのです」

もし、外国語を学ぶ意味がそうであるならば、数学は?  国語は?  音楽は?  歴史は?  と子供に問いかけ、親も考えてみる。

そして「お父さん(お母さん)はこう思うけど、自分はどう思う? 」と、ある意味“対等な関係”での議論をしたほうが秀才煮詰まりタイプの子供の納得感を得やすいのではないか。すぐには効果が出ないかもしれない。しかし、少なくとも大人の論理・常識によって丸め込もうとするのは逆効果であることは確かだ。

・・・子供さんの人格形成は、お母さんがお腹に身籠った瞬間から始まっている、とお母さんには考えて頂くことが肝要です。

そうであれば、お腹が大きくなることがなく、産みの苦しみを経験し得ないお父さんは、どのような姿勢を持つべきだろうか。筆者の子育ての苦い経験からすると、男親は我が子をなかなか客観視できないという単純な事実があることです。つまり、能書きや理想論を普段物語っても、いざ自分の子供のことになると、合理的な論理が吹っ飛び、こうあるべきだ論が頭をもたげます。「自分はこうだった、親から厳しく育てられた」みたいな。

しかし、親も子も「縁(えにし)」があって出会うという、人類が生まれてからずっと繰り返してきたことに想いを致せば、「健康」でさえあってくれれば、「御の字」であるという、極めて当たり前だけど、非常に大事な根本を常に意識しなければならない、と「男親」の筆者は自戒しております。

posted by at 01:31  |  塾長blog

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