何故学ぶのか 勤學

長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室 http://rashinjyuku.com/wp では、古来日本人が学んで来た古典の一節なども参考にしながら、学ぶことの意味合いを理解する必要があると考えます。

以前ご紹介した「幼學綱要(ようがくこうよう)」卷之三 勤學第六 には、

人皆天賦ノ徳性アリ。然レドモ學バズシテ能ク道ヲ知ル者無シ。必ズ當ニ先覺ニ就イテ學習シ、道ヲ明メ、行ヲ修メ、以テ其ノ徳ヲ成スベシ。苟モ師トスル所無ク、才ヲ恃ミテ自ラ用フルトキハ、徳ヲ傷ヒ事ヲ傷ル。小技末藝ト雖モ、終ニ成スコト能ハズ。故ニ勤學ハ,己ヲ成シ物ヲ成スノ根柢ナリ。

「人は皆、天から賦与された道徳を弁えた正しい品性がある。しかしながら、学ばずして正しく人の踏み行うべき事を知る者はいない。必ず物事の道理を悟っている人(学問や見識の優れている人)に就いて学習し、道を明らかにし、行を修め、以ってその徳(品性)を高めなければならない。もしも師とする所無く、生まれつきの能力を当てにし、自分本位で行動すれば、徳(道徳的品性)を傷(そこ)ない、事(事柄、事態)を傷る。小技末藝(ちょっとした技術や簡単な藝)とはいえ、最終的に全うすることは出来ない。故に、勤學(熱心に学問すること)は、自己を成長させ、物事を成就する土台である。」

子供の頃に、何の為に学ぶのか、と自問自答した経験をお持ちの方は多いと思います。それを親、兄弟姉妹、先生、友達、など身近な人に問うこともあるでしょう。其時に答えが出なくとも、いつの日にか悟ることもあります。人は年齢を経てくると、学んでおけば良かったという悔恨が残ります。若い時には、それに気付かない。

だからこそ、将来ある若人に「勤學」の必要を説かねばなりません。

「国民の修身」渡部昇一監修(産経新聞出版)の序文に代えてに、「修身」は人間としての基礎を教えている 渡部昇一 という一文が有ります。

 国があり、家があり、自分がある

修身」という言葉が普及したのは、徳川時代に儒学が普及し、四書(『論語』・『孟子』・『大学』・『中庸』)が各地の藩校などで読まれ、その中でも『大学』の中の教訓を『修身.斉家(せいか)・治国(ちこく)・平天下(へいてんか)』という言葉に要約したものが、主として武士階級の人々に記憶されるようになったからである。

 この『大学』の言葉は支配階級の人たちの心がけの順序として教えられたのであった。天下を治めようとするなら、まず自分の国(領地)をよく治めなさい。自分の国を治めるには、まず自分の家をよく平和に保つように斉(ととの)えなさい。自分の家を斉えるには、まず自分自身が修養して立派な人格を作らなければなりませんということである。これは朱子学のエッセンスとして受け取られた。

 中江藤樹(なかえとうじゅ 一六〇八〜四十八)は十一歳の時、初めて『大学』を読み、「天子ヨリ庶人ニ至ルマデ、一ニコレミナ修身(身ヲ修ムル)ヲモッテ本(モト)トナス」という所に至るや、深く感嘆して涙を流したという。それは徳川家康が亡くなってから二、三年後の話である。

 当時、庶民も天子も、人間としての基礎になるのは同じこと、つまり修身なのだと感奮したのである。そして彼自身は近江聖人(おうみせいじん)といわれる人物になったのだった。

 また荻生徂徠(おぎゅうそらい 一六六六〜一七二八))は少年の頃、南房総に父と共に流落しており、学問の師となる人もいなかったが、たまたま父(将軍綱吉の侍医だったが流罪)の持ち物の中に『大学諺解(げんかい)』があった。

諺解というのは和文の注釈である。彼はこの本一冊を十二年間読み続け、その為後に江戸に戻ってみると、他の漢籍を注釈なしに読めるようになっていたという。こうした逸話が伝えられるほど、『大学』は普及しており、その『経一章(けいいっしょう)』に述べてある修身の大切さを学んだのであった。

今、教育に憂いを持つ人と語るとき、一意専心に学ぶことを、なぜ教育に携わる先生と名のつく人たちが若人に伝えないのか、と憤ることが有ります。コレは、所謂「学校」と名のつくところは無論、職場など持ち場持ち場で後輩に何かを伝えていくべき立場の方も同様です。何かと学ぶ為に必要なこととして、敢えて強いる必要のある場合、辛抱することができない若人を放置しておいて良いのか、と。

「我慢」「辛抱」という言葉を、経験として学ぶよう後代の若人に伝えなければ、どれほど軟弱な、生きる術を見出せない世代を作ることになるのでしょうか。

そうならない為にも、子を持つお父さん、お母さん方には、我が子を厳しく、且つ愛情を持って叱咤激励して頂きたいものです。「良薬は口に苦し」「艱難汝を玉にす」という諺は、いつの時代にも「甘やかす」親への戒めとして残された名言であるはずですから。厳しく接する事が出来るのは親の「伝家の宝刀」でもあり、「義務」でもあると考えます。

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