教科書に載らない歴史上の人物 8 広瀬淡窓

時代や背景は異なりますが、江戸期に八十年で学んだ入門者が約4,800人に及ぶ私塾があります。
日本人の勉学に勤しむ姿勢は基本的には変わることがありません。
しかし、学ぶ内容は大いに反省すべきことが多いのではないでしょうか。

さて、教科書に載らない歴史上の人物の再掲(加筆)です。

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大分県日田市に咸宜園(かんぎえん)という旧跡があります。
咸宜園は、広瀬淡窓(ひろせたんそう)が主催した私塾(1805創始)です。

咸宜園は、天領であった豊後国日田郡堀田村に文化2年(1805年)に創立された全寮制の私塾です。
「咸宜」とは『詩経』から取られた言葉で、「ことごとくよろし」の意味。
塾生の意志や個性を尊重する理念が込められています。

筆者も、かって咸宜園を訪問。広瀬淡窓の、人として教育者としての徳の高さに感銘を受けました。
本来、「修身」(現在の道徳)又は「国史」(我国の歴史:日本史というのは適切でない科目名です)の授業などで、しっかり子供たちに伝えていくべき偉人です。

産經新聞の「元気の出る歴史人物講座」(平成22.9.15)からの引用。

 江戸期、全国に私塾が数多くできたが、近世最大の私塾が豊後(ぶんご)国日田(ひた)(大分県日田市)にあった咸宜(かんぎ)園である。
創始者の広瀬淡窓(たんそう)は50年間塾を主宰し、約3千人の人々が学んだ。
塾生が来なかったのは下野(しもつけ)、甲斐(かい)、隠岐(おき)、大隅(おおすみ)の4カ国だけである。

淡窓独特の教育方針が三奪の法と月旦(げったん)評と分職の3つである。

三奪の法とは入門時、年齢、学歴、身分の3つを奪い、同一線に並ばせ、そのあとは塾内における勉学如何(いかん)で優劣が定まるやり方である。

月旦評とは毎月はじめに全塾生の成績を厳正に評価し一覧表にして公表したことである。これにより塾生の努力、やる気を促した。

分職とは全員に塾内の仕事を与え、職務分担をさせることである。淡窓は共同生活を重視して塾生が学問、人格共にすぐれた人物になることを願った。

こうした淡窓の教育のやり方が評判を呼び、全国から人々が駆けつけたのである。

淡窓は学者、教育者、詩人として超一流だったが、何よりもすぐれた人格の持ち主だった。
54歳のとき、日々善事を積み重ね「一万善」を達成する決意をした。

毎日、善(よ)いことを行ったとき、3つならば白丸印を3つつける。
悪いことをした場合、2つならば黒丸印を2つつける。
その差し引きで67歳のとき1万に達した。
そのあと73歳まで続け、さらに「五千善」に及んだ。

生涯かけて内省と修養、積善積徳に努めた江戸期の生んだ偉人であった。

広瀬淡窓

 

広瀬淡窓とは 

広瀬淡窓
天明2年(1782年) – 安政3年(1856年)は、江戸時代の儒学者。教育者、漢詩人でもあった。
豊後国日田の人。淡窓は号。通称は寅之助のちに求馬(もとめ)。

広瀬淡窓は、儒学者・漢詩人ですが、咸宜園では四書五経のほかにも、数学や天文学・医学など様々な学問や分野にわたる講義が行われたそうです。
毎月試験があり、月旦評(げったんひょう)という成績評価の発表があります。
それで入塾時には無級だったものが、一級から九級まで成績により上がり下がりしたといわれています。
塾出身者には、高野長英や大村益次郎、清浦奎吾、上野彦馬、長三州、横田国臣、松田道之などがいます。

敬天
 人、天を敬うことを知れば、
 即ち、善は勉めずしてして成り、
 悪は禁ぜずして去る。

・・・淡窓の説くこの応報論は「敬天思想」と言われます。
淡窓の指針である「敬天」とは、人間は正しいこと、善いことをすれば天から報われる、と。

posted by at 06:26  |  塾長blog

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