教科書に載らない歴史上の人物 11 藤原岩市

長崎市の公立学校では所謂「平和教育」が盛んです。
しかし、戦争反対をお題目の様に唱えても戦争は回避できません。
冷厳な国家間のPower of Balance(パワー オブ バランス)、即ち「力の均衡」を保つ以外に、いつ侵攻されてもおかしくないのが国際社会です。
日本の先人たちが、如何に艱難辛苦して日本を死守しようとしてきたかは、1853年のペリー来航から大東亜戦争に至るまでの正しい近現代史を学べば理解できます。

更に、昭和20(1945)年から昭和27(1952)年の米国による占領統治。
その占領下で日本を解体する様々な占領政策や米国の要求する日本国憲法の押し付けなど、多くの隠されてきた現代史があります。
事実を事実として教え、子供達に比較研究させる教育が必要です。

さて、教科書に載らない歴史上の人物の再掲(加筆)です。

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小・中・高校の歴史の授業では、古代から始まり、精々第一次世界大戦まで位しかすすまず、第一次世界大戦以降現在までの歴史を教えていません。
これは、非常に由々しきことだと考えます。
現在につながる大事な過去の日本の近・現代史を教えていないのですから。

筆者は高校卒業後から現在まで、様々な文献をあたりながら、教科書や学校の先生が教えてこなかった歴史を紐解いています。
例えば、先の大戦の呼称は、教科書では「太平洋戦争」となっています。
しかし、日本の正式の呼称は、昭和16年(1941)12月8日のマレー作戦及び真珠湾攻撃後、同12月12日の東條内閣での閣議決定により、「大東亜戦争」の名称と定義が定められています。

昭和20年(1945)8月の米国の日本占領後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の民間情報教育局(CIE)が中心となり、「大東亜戦争」の語は、日本語としての意味の連想が国家神道、軍国主義、国家主義と切り離せないと米国側から判断され、「八紘一宇」(注参照)などの語とともに公文書で使用することが禁止されました。
つまり、米国は検閲などを通し、自国に都合の良い情報統制を行い、本当の歴史を封殺しているというのが実情です。

結果的に、子供たちの教科書は、現在も「大東亜戦争」を「太平洋戦争」と記載されていることからみて、本当の歴史を記載しているとは言えません。

従って、「大東亜戦争」での日本人の活躍は、子供たちの目に触れることはなかなかありません。

注:「八紘一宇(はっこういちう)」『日本書紀』巻第三神武天皇の条にある「掩八紘而爲宇(はっこうをおおいていえとなす)」から作られた言葉で、大意としては 「天の下では全ての民族は平等である。天下を一つの家のようにしようすること。」 八紘は世界、一宇は一つの家という意味。

現在の教科書ではまず取り上げられないエピソードを、産經新聞の「元気の出る歴史人物講座」(平成21.3.11 )から。

 藤原岩市 インド人将校らに示した友愛

 インドは世界有数の親日国である。
その理由はインドの独立に日本が絶大な貢献をしたからだ。

 大東亜戦争開始後、対インド・マレー工作を担当したのが藤原機関だが、機関長の藤原岩市(いわいち)陸軍少佐は日本軍がマレー半島を進撃中、イギリス軍内のインド兵に投降を働きかけインド国民軍を結成させた。
これがインド独立の礎となるのである。

 藤原は最初の投降兵との親睦(しんぼく)を図るため、インド料理による機関員とインド人将校との会食を催した。
藤原らは初めて口にする舌のしびれるような辛い料理をインド人にならい手づかみで食べた。

英軍内ではインド人将校は英人将校と同席の会食は許されず、インド料理すら認められなかったから彼らは藤原の誠意ある態度に深く感激した。

 将校の代表は
「藤原少佐の敵味方、勝者敗者、民族の相違を超えた温かい催しこそは一昨日来、我々に示されつつある友愛の実践とともに日本のインドに対する誠意の千万言に優る実証」
と述べた。

 藤原と肝胆相照らし(注参照)たのが後にインド独立第一の英雄と仰がれるチャンドラ・ボースである。
自由インド仮政府首相となったボースの率いるインド国民軍は昭和19年、日本軍とともにインドのインパールに進撃して敗れた。

 しかしこの祖国解放の戦いを敢行したことが結局インドの独立を導いた。
 藤原機関は「インド独立の母」とたたえられた。

注:肝胆(かんたん)相照(あいて)らす・・・心の底までさらけ出し、親しく付き合うこと。

    藤原中佐

昔から、日本人は肌の色や宗教で差別することの少なかった民族です。
欧米などが、アフリカ・南北アメリカ・中近東・アジアなど世界中ででどのようなことをしてきたか、世界の歴史を遡ればその差は一目瞭然です。
やはり、所謂(いわゆる)理科系・文科系を超えて、等しく歴史(国史・世界史)並びに地理はしっかり学ぶ必要があります。

藤原岩市とは 

藤原岩市
明治41年3月1日生まれ。陸士〔昭和6年〕卒,陸大〔昭和13年〕卒。
大東亜戦争中は南方軍参謀として東南アジアに派遣される。
更にインド,マレーなどに対する謀略工作にあたる。
マレー半島に潜入し、“F機関”と呼ばれる情報機関を作って、英軍内のインド兵に対する工作に活躍。
またビルマでチャンドラ・ボース氏を助けて、インド独立をめざす“インド国民軍”の創設を援助。
陸軍中佐で終戦。
昭和30年陸上自衛隊に入隊。39年の東京五輪には第一師団長として協力。陸将。
昭和61年2月24日死去。77歳。兵庫県出身。陸軍大学校卒。著作に「F機関」。

F機関のFは、Friendship(友情)、Freedom(自由)、Fujiwara(藤原)に因むそうです。
その活動の一端を示すエピソードをご紹介します。

日本の終戦後、藤原中佐はシンガポールのチャンギ刑務所に拘留され、F機関が行った様々な工作に関する厳しい尋問が行われました。その時の英軍のマレー探偵局長との会話は興味深いものです。

 英軍探偵局長
 「貴官は一般歩兵将校で、陸軍大学校卒業後、野戦軍参謀を経て、短期間大本営の情報、宣伝、防諜業務にたずさわっただけで、この種秘密工作の特殊訓練や実務経験のない素人だという。しかも、語学も、現地語能力は皆無、英語はろくろく話せないとのこと。その上、戦前、マレイ、印度の地を踏んだ事もなく、この度の現地関係者と事前に、何の縁もなかったと訴える。更に貴官の部下将校は海外勤務の経験も、この種実務の経験もない若輩の将校であったとの事。そんなメンバーから成る貧弱な組織で、このようなグローリアス・サクセスを収めたと云っても、納得できるだろうか、納得し得る説明を加えられたい」
(中略)

 私(藤原中佐)は、この好意の局長に満足を得る回答を与えたい、局長の云うことも道理だと思うけれども、名答が浮ばない。私はしばし考え込んでしまった。そして、これより外にないと思い至った所信を、誠意をこめて語った。
 
 藤原中佐 
「それは、民族の相違と敵味方を超えた純粋な人間愛と誠意、その実践躬行ではなかったかと思う。私は開戦直前に、何の用意もなく準備もなく、貧弱極まる陣容で、この困難な任務に当面した時、全く途方に暮れる思いに苦慮した。そしてハタと気付いたことはこれであった。英国も和蘭も、この植民地域の産業の開発や立派な道路や病院や学校や住居の整備に、私達が目を見張るような業績を挙げている。しかしそれは、自分達のためのもので、原住民の福祉を考えたものではない。自分達が利用しようとするサルタンや極く一部の特権階級を除く原住民に対しては、寧ろ、故意に無智と貧困のまま放置する政策を用い、圧迫と搾取を容易にしている疑いさえある。ましてや民族本然の自由と独立への悲願に対しては、一片の理解もなく、寧ろこれを抑制し、骨抜きにする圧政が採られている。絶対の優越感を驕って原住民に対する人間愛――愛の思いやりがない。原住民や印度人将兵は、人間、民族本能の悲願――愛情に渇し、自由に飢えている。恰も慈母の愛の乳房を求めて飢え叫ぶ赤ん坊のように、私は、私の部下とともに、身をもって、この弱点を衝き、敵味方、民族の相違を超えた愛情と誠意を、硝煙の中で、彼らと実践感得させる以外に、途はないと誓い合った。そして至誠と信念と愛情と情熱をモットーに実践これを努めたのだ。われわれが、慈母の愛を以て差し出した乳房に、愛に飢えた原住民、赤ん坊が一気に、しがみついたのだ。私は、それだと思う、成功の原因は」と力説した。

 英軍探偵局長 
「解った。貴官に敬意を表する。自分は、マレイ、インド等に二十年勤務してきた。しかし、現地人に対して貴官のような愛情を持つことがついにできなかった。」

これらを読むと、現在の歴史教科書やマス・メディアが喧伝(けんでん*)している「日本が侵略戦争を起こした張本人」の様なStereotype(ステレオタイプ*)の扱いが不当であるというのが分かります。

喧伝(けんでん*)・・・世間に言いはやし伝えること。盛んに言いふらすこと。
Stereotype(ステレオタイプ*)・・・判で押したように多くの人に浸透している先入観、思い込み、固定観念、偏見・差別などの類型の観念のこと。

posted by at 17:58  |  塾長blog

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