教科書に載らない歴史上の人物 14 八田與一

高校受験学校説明会(塾対象)を様々巡ると、その高校の目指す方向性がよくわかります。
長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室では、各高校の先生方の教育に対する熱意や具体的な取り組みなど、質問を交えてお伺いします。

先ずは、長である校長先生を観察(失礼な物言いではありますが)。
その意気込みや姿勢を受けての部下の先生方の様子を拝見。
校舎周りや玄関、廊下、教室、実験室等等、目を配ります。
各高校の先生方はそれぞれ努力されていますが、様々な悩みも抱えているご様子。
如何に生徒の自主性や自立心を養うか。
勉学に対する動機・意義、忍耐心の涵養など、です。
難関大学を目指すには、日々の精進は並大抵ではありません。
その為には、幼児期から小学校低学年までに「学ぶ」姿勢を身につけ、訓練を繰り返す必要があります。

さて、教科書に載らない歴史上の人物の再掲(加筆)です。

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今なお台湾で最も尊敬されている日本人の一人が八田與一である。

 八田は戦前、台湾総督府の土木技師として嘉南(かなん)平野に「嘉南大圳(●=つちへんに川の字:たいしゅう)」と呼ばれる東洋一の灌漑(かんがい)施設を作った人である。
 台湾最大の嘉南平野は洪水、干魃(かんばつ)、塩害の三重苦に悩まされる不毛の大地だった。
八田はこの地を沃野(よくや)に変えるには巨大な灌漑ダムと給排水路を作る以外になしと思い、この一大事業を企画した。

 2年間の調査を経て大正9年、工事を開始、幾多の苦難を乗り越えて10年後の昭和5年に完成した。
貯水量1億5300万トンの烏山頭(うざんとう)ダムと1万6000キロに及ぶ給排水路による灌漑施設で、総工費は今日で5000億円以上といわれる。世界の土木界を驚嘆させた嘉南大圳は、日本の灌漑土木技術の優秀さを世界に証明した金字塔であった。

 香川県の広さに相当する15万町の嘉南平野は肥沃な緑野に変貌(へんぼう)、台湾最大の穀倉地帯となった。
苦しい生活から脱却できたこの地の60万の農民たちは、八田を「嘉南大圳の父」と仰ぎ敬愛した。

 八田は大東亜戦争中の昭和17年、乗船が米軍潜水艦に撃沈され56歳で亡くなった。嘉南の人々は八田の功績を称(たた)え、遺徳を永遠に伝えんとしてダムのそばに銅像と墓(夫人も共に)を建立、毎年5月8日の命日、盛大な墓前祭を行っている。

八田與一

八田與一とは

八田 與一(はった よいち) 明治18(1886)年 ~昭和17(1942)年。
日本の水利技術者。日本統治時代の台湾で、農業水利事業に大きな貢献を果たす。

石川県河北郡花園村の出身。
石川県尋常中学、第四高等学校(四高)を経て、1910年(明治43年)に東京帝国大学工学部土木科を卒業後、台湾総督府内務局土木課の技手として就職。

與一が顕彰される背景には、業績もさることながら、土木作業員の労働環境を適切なものにするため尽力したこと、危険な現場にも進んで足を踏み入れたこと、事故の慰霊事業では日本人も台湾人も分け隔てなく行ったことなど、彼の人柄によるところも大きく、エピソードも多く残されている。

現在でも中学生向け教科書『認識台湾 歴史篇』に八田與一の業績は詳しく紹介されているそうです。

平成16年(2004年)末に訪日した李登輝台湾総統(農業経済学者でもある)は、與一の故郷金沢へ訪問したほどです。

八田與一は、昭和17年(1942年)5月、フィリピンの棉作灌漑調査のため広島県宇品港で乗船。
その途中、乗船していた大洋丸が五島列島付近でアメリカの潜水艦に撃沈され、與一自身も死亡。沒後贈正四位勲三等。

さらに、悲しいことに、その妻、外代樹(とよき)は、與一が死去し日本が戦争に敗れた後の昭和20年9月1日、夫の後を追うようにして烏山頭ダムの放水口に投身自殺した。

戦後の日本の教育現場では、将来を担う子供たちに、このような偉大な人物の業績や事実を教えることはありません。

posted by at 16:53  |  塾長blog

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