春期講習中の羅針塾の一日。歴史と合わせて国語力の増強のために、分厚い日本の通史(「日本国紀」百田尚樹著)を小学生が輪読をしています。子供向けではなく大人が読むレベルですが、漢字の力のある小学生が「読み」を手助けしながらの輪読です。
七世紀の飛鳥時代の当時の日本を取り巻く国際環境は、現在の日本の置かれている国際的な緊張関係と同じく厳しいものがありました。「白村江の戦い」をすんなり「はくすきのえ」と読める小学生はまずいません。しかし、皆で協力しながら、読み進めます。
この戦いについて書かれたブログ記事のご紹介です。
国際派日本人養成講(http://blog.jognet.jp/201903/article_5.html)からの引用です。
白村江の戦い
~ 朝鮮半島及び中国由来の危機ゆえの国運を賭した戦争わが国は、朝鮮半島及び中国由来の危機ゆえに幾度も国運を賭して戦争をした。一例が7世紀に唐、新羅連合軍と戦った「白村江の戦い」である。
■国運賭けた「白村江の戦い」
わが国は、朝鮮半島及び中国由来の危機ゆえに幾度も国運を賭して戦争をした。その都度驚嘆すべき努力を重ね、信じ難い大変革を成し遂げた。一例が7世紀に唐、新羅連合軍と戦った「白村江の戦い」である。
余りにも古い話だと思われるだろうか。私はしかし、東アジアの大戦争だったその重要な話を、歴史を学ばないゆえに忘れてしまっていることこそ勿体ないと思う。白村江の戦いは日本が国運をかけて臨んだ「筋を通した義戦」だった(夜久正雄『白村江の戦』国文研叢書15)。義に命を捧げた古えの人々のおかげで、後述するようにわが国は真の意味で中華の世界から独立できた。
当時、朝鮮問題は多年の懸案だった。「日本書紀」には、継体天皇の527年、欽明天皇の562、推古天皇の600年、602年、623年と、幾度も万単位の兵を百済救済のために渡海させた記録がある。
日本に仏教文化を伝播した百済は660年に新羅と唐の連合軍に敗れた。百済王らは人質にとられ国は滅びた。しかし臣下らが百済の再建を目指して日本に救済を求めた。対して女帝斉明天皇が決然たる詔書を発した。
「危急をたすけ、王位の絶えたるをつぐことは、永久の規りである。百済の国はいま窮迫して、我が国をたより、国が滅びて依るところなく、告げるところもなく、戈を枕にし胆を嘗めて、必ずや救援を得て国を興したいといふ。遠くより来てその思ひを述べる。志、奪ひがたいものがある」(前同)。
これより前の607年、聖徳太子は随の皇帝に「日出処の天子」という手紙を送り、独立を宣言した。その独立国日本が「大唐、新羅の連合軍に対して百済の救済のために兵を発する」と凛として命じたのである。
斉明天皇は68歳、7世紀にあっては高齢だ。しかし老体自ら築紫の国に赴き、決意を示した。2万7000の兵を1000艘の船に乗せて西へ送ったが、斉明天皇は遂に崩御し、日本軍は惨敗した。天智天皇は唐・新羅連合軍の侵攻に備えて都を内陸部の大津に遷し、北九州、瀬戸内海、大和に堅固な国防体制を敷いた。
■日本に学んだ新羅
敗れたりといえども唐に屈せず国防の気概を高める日本の姿に最も刺激を受けたのが新羅だった。彼らは発奮した。国とは何か、民族とは何か、一国を担うとはどういうことかを、彼らは日本の姿から学んだであろう。百済滅亡の姿から、一国が滅びることの意味を、衝撃をもって知ったであろう。そして心に決したであろう。断じて唐の支配下で傭兵の国であり続けてはならない、と。
新羅は唐と共に日本に迫るべきときに、逆に唐に反攻し、その後の676年に朝鮮半島を統一した。そのとき新羅は日本を蔑称の「倭国」と記さず、「日本」と記したのである。夜久氏はこれを「七世紀後半の東アジアの大事件」と形容した。
先に進む前に、当時の日本人の教養の高さについても知っておきたい。白村江の戦いのため「築紫に送られた諸国の防人の歌」が万葉集におさめられている。防人の歌の集録は天平勝宝7年(755年)で、白村江の戦い(663年)から約90年が経過した時点のことだ。夜久氏は「防人の歌は、実に世界の奇蹟」、「どこの国に、西暦755年代にかくも多くの兵士たちの詩を残した国があっただろうか」と賞賛した。
詩には兵士たちの名はおろか、妻の名さえ残されている。万葉集におさめられた約80首は、みな優れた歌である。このような人々が我が国の防人だった。当時の人口は400万から500万とみられるが、一般の大衆が歌を詠む国、教養ある国が日本だった。
日本の教養は当初、中国に学んだ文字によって支えられた。技術、律令制度等も中国に学んで国造りを進めた日本はしかし、大和の価値観を尊び、中国とは異なる形で民を守り、文明を育んだ。そして遂に唐と対等の地位を確立した唯一の独立国となった。
・・・世界史的に観ても、日本は独自の文化圏を形成し、飛鳥時代において防人である一般の庶民でも歌を読めるほどに高い教養を持っていたという事実は驚きです。当然、識字率も高かったはずです。
更に、ゆとり教育のせいで平成10年(1998)の小学校指導要領の改訂によって、一度教科書から旧石器時代と縄文時代(新石器時代)は消えていましたが、その縄文時代が新たに脚光を浴びています(因みに、平成20年(2008)にはようやく復活しましたが、その記述はわずかしかありません)。
考古学の画期的な発見やDNA分析の進歩により、これまでの縄文時代の常識が覆っています。つまり、縄文の文化は、渡来人の文化によって一掃されたと考えられていましたが、それは大きな誤りだったということが判明しつつあります。遺伝的に日本の縄文人達は特異な特徴を持ち、その暮らしは決して原始的でなく、現代日本に通じる信仰と習俗と生活が出来上がっていたのです。天皇のあり方も縄文的特徴を帯びていることや、日本の神話とされている例も縄文時代に起源があるのではないか、とまで言われています。
現在ある食生活の一例として「寄せ鍋」がありますが、これもすでに縄文時代に縄文土器で「寄せ鍋」をしていたとも言われています。薬味に山椒の葉や実などを活用していたとか。まさに、その頃から日本人はグルメであったようです。