謹賀新年 

令和二年庚子(かのえ・ね)元旦 

干支(えと)の十二支勢揃い 中心が本年の子

長崎大学教育学部附属小学校受験まであと僅か。新暦でのお正月を迎え、氣持ちも新たに羅針塾学習塾・幼児教室では、正月特訓中です。幸い、温かな新春の日差しの中で、元氣に御挨拶から始まります。

防府天満宮の臥牛(レプリカ) 牛は天神さまのお使いとされ、臥牛が天神さまの鎮まる場所を表すシンボルとなっています。

塾生の中には、帰宅する際に必ず上掲の臥牛の頭を撫ぜていくものもあり、学問の神様菅原道眞公に肖(あやか)ろうと言う塾生の素直な氣持ちの表れといえます。

因みに、学問の神様菅原道眞公は全国的には、終焉(しゅうえん)の地である福岡県太宰府市の天満宮や京都市の北野天満宮が有名ですが、日本最初の天神様は山口県防府市の防府天満宮です。

防府天満宮http://www.hofutenmangu.or.jp/nenkan.htmlnのサイトから引用してご紹介します。

防府天満宮の御祭神は菅原道眞公。

平安の古、菅原家は学者の家として栄えておられました。その家柄の中で道真公は菅原是善の子として、承和12年(845)6月25日にお誕生になり、幼名を「阿呼」(あこ)と申されました。幼少より学問に優れ、僅か5歳の時、庭に咲いている梅を愛でられ、

「美しや紅の色なる梅の花 あこが顔にもつけたくぞある」

とお詠みになりました。

その後、18歳で文章生、33歳で文章博士になられ学識を高めていかれる一方で、誠実な政治感覚により時の帝の信任も篤く、高位高官へ昇られ、55歳の時に右大臣に任じられました。しかし時の権力者である藤原氏による讒言により無実の罪を着せられ、昌泰4年(901)1月25日、九州大宰府へ左遷されることになりました。その際御自宅の紅梅殿の庭にて

「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花 主なしとて 春な忘れそ」

と和歌を詠まれて、永く親しまれた梅の花に別れをお告げになりました。

左遷より2年の月日が経った延喜3年(903)2月25日大宰府にて無念の思いのまま薨去されました。そこで亡骸を牛車にお乗せし引かせたところ牛が伏せて動かなくなりました。人々は「きっとここに葬って欲しい」という道真公のお気持ちの表れであると思い、その地(今の太宰府天満宮)に葬りました。

薨去後、都では天変地異が続き左遷に関わった者達が次々に亡くなりました。人々は道真公の怨霊の仕業に違いないと畏れ、御霊魂をお慰めするため京都の地(今の北野天満宮)に神としてお祀りしました。
道真公と梅と牛にまつわる伝承は数多くあり、そのことから全国の天満宮では境内に梅が咲き誇り、牛は天神さまのお使いとされ、臥牛が天神さまの鎮まる場所を表すシンボルとなっています。

日本最初の天神様と銘記されているのが下掲の写真です。

銘は「扶桑菅廟最初」とあります(筆者撮影)。

防府天満宮は日本で最初に創建された天神さまです。

道真公は、九州大宰府への西下の途中、時の周防国(山口県)国司である土師氏(道真公と同族)を頼り、本州最後の寄港地となる防府の勝間の浦に御着船になり、「此地未だ帝土を離れず願わくは居をこの所に占めむ」(解釈:この港を出発すれば次はいよいよ九州であるが、この防府の地は天皇のいらっしゃる京の都とまだ地続きである。願わくはここ松崎の地に住まいを構え「無実の知らせ」を待っていたい。) と願い九州へと旅立たれました。

大宰府にて薨去されたちょうどその日、防府勝間の浦に神光が現れ、酒垂山(現・天神山)に瑞雲が棚引き人々を驚かせました。国司を始め里人たちは道真公の御霊魂が光となり雲となって「此地」に帰ってこられたと悟り、翌年の延喜4年(904)道真公の願われた通り、御霊魂の「居」を「この所」である松崎の地に建立して「松崎の社」と号しました。

道真公をお祀りした神社は全国に約1万2千社ありますが、当宮創建をもって「扶桑菅廟最初」日本で最初に創建された天神さまと称しています。

 

・・・就学前とはいえ、言葉の豊富な子供さんは、理解する力がありますから、指示行動も過たずに出来ます。そうでない場合は、本人も親御さんも一苦労も二苦労もすることになります。語彙力の差は、本試験の際に応用力となってあらわれます。

posted by at 14:39  |  国語力について, 塾長blog

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