教科書に載らない歴史上の人物 25 橋本 景岳3

人生において、人を尊敬したり人に師事する際に、自分自身より年齢の高い人は多くあれど、年下の人を敬したり、重んじて意見を聞くというのはなかなか出来ないことです。歴史上の人物について学ぶときに、故事(昔から伝えられているいわれや物語)が残されていると、想像上のイメージが豊かに膨らんできます。

さて、教科書に載らない歴史上の人物 25 橋本 景岳2からの続きです。「少年日本史」(平泉澄著 皇學館大学出版部)p.608からの引用です。

景岳は西郷隆盛をたずねて、國家の重大事に就いて協力を求めました。西郷は七つ年上である上に、體格(たいかく)も雄大でしたから、景岳が身長も低く、痩せて色白であるのを見て、初めは之を軽んじていましたが、一たび其の説を聽(き)くに及んで悉(ことごと)く感激し、全面的に之に追隨する事を約束しました。

景岳は川路(かわじ)左衛門尉(さえもんのじょう)をたずねました。川路は當時最も識見あり氣骨あり勢力ある幕府の奉行でした。それ故に景岳を引見するに當って、初めは頗(すこぶ)る横柄でした。いよいよ其の説を聽(き)いては、大いに驚歎(きょうたん)し、翌日人に語って、「昨日橋本に會ったが、自分の身體(からだ)を半分切取られたような氣がした」と語ったといいます。

それでは其の、西郷を心服せしめ、川路を屈服せしめたところの、景岳の國難打開策は、どういう内容であったか、

「少年日本史」(平泉澄著 皇學館大学出版部)p.608

(一)外交問題。

鎖國という事は、もともと道理にもかなわず、その上今日の情勢では不可能に屬(ぞく)する故、斷然(だんぜん)國を開いて、世界萬國(ばんこく)と交易し、忠孝仁義の教えは、自ら固く之を守ると共に、外國にも之を教え、その代りに物質文明、精密機械は外國より採入れるが良い。いよいよ開國となれば、外交方針を立てなければならないが、その爲には世界情勢、此の先き、どう動くかを見極めなければならぬ。

自分の考(かんがえ)では、將來國際連盟が出来て萬國(ばんこく)手をつなぎ、戦争を止める方向へ進むであろうと思われるが、その場合、國際連盟に指導的位置を占めるものは、先ずイギリス、もしくはロシア、この二つの内であろう。さて日本はどうすれば良いかと云うに、孤立する事は危険である。もし孤立したいとならば、朝鮮、満州、沿海州を併合し、更にアメリカ、もしくは印度に植民地をもつ必要があるが、西洋諸国がすでにこれらの地方を占領している以上、是は今日不可能に属する。孤立は危険であるとなれば、どれか一國と同盟するが良い。その同盟の相手國としては、イギリスか、ロシアかが考えられるが、もし日英同盟が出来る時は、必ず日露戦争が起こり、逆に日露同盟が出来れば、當然日英戦争が起きるであろう。國を開く以上、それまでの見通しと覺悟とが必要である。

・・・橋本景岳は、若干二十六歳のときまでに、つまり日露戦争(1904)の約四十五年前には、日英同盟(1902)と併せて、先見(将来のことをあらかじめ見通すこと)していたのです。現在の情報が錯綜する時代と比べ、限られた情報の中で、見透す力を自ら課した学問を通して身に付け、時の幕府や諸藩の指導的立場にあるものに説いていたのです。

(二)将軍後嗣(あとつぎ)の問題。

開國はやがてイギリス又はロシアとの一線を覚悟しなければならぬとすれば、それは國家浮沈の一大事である。從って政局の擔當(たんとう)者である將軍には、國體に明らかであって対局の判斷を誤らない英明なの人物を選定しなければならぬ。今問題となっている候補者二人に就いて云えば、慶喜(よしのぶ)はすでに二十歳を越え、家茂(いえもち)はまだ十歳を何程も越えていない。且つまた其の人物を見るに、慶喜は水戸の流れを汲んで英明である。よろしく調停にお願いして、慶喜を將軍の後嗣とするよう御沙汰を拜(はい)するが良い。

・・・後の歴史の妙からすると、橋本景岳の読み通りになっていると云えます。維新前の将軍慶喜の動きと薩長の動きには、手に汗を握る攻防があります。

政治の大改革。

ゆくゆくは一戰を覺悟しての開國であるから、政治機構をを今まで通りにしているわけにはゆかぬ。内務大臣としては水戸斉昭(みとなりあき)、越前慶永(えちぜんよしなが)、薩摩の島津齊彬(なりあきら)等、外務大臣としては肥前の鍋島齊正(なりまさ)、その下の局長としては川路(かわじ)左衛門尉(さえもんのじょう)、岩瀬肥後守(いわせひごのかみ)等、有名達識(ゆうめいたっしき:広く知られていること、物事の全体を見通す、優れた見識。達見。)の士は之をひろく天下に求めて、内務、外務に分属せしめるが良い。京都の守護職としては尾張の慶恕(よしくみ)、鳥取の池田慶徳(よしのり)、その次長としては彦根の井伊、大垣の戸田。蝦夷(北海道)の長官としては宇和島の伊達宗城(むねなり)、土佐の山内豊重(とよしげ)。

この陣容ならば、愉快に改革が出来るであろう。その上、ロシア、アメリカより御傭教師(おやといきょうし)として各方面の専門家五十人ばかり招き、學校を立て、生産を講ずるが良い。

・・・御傭教師(おやといきょうし)として各方面の専門家五十人ばかり招き、はまさに明治新政府が実行したことです。また、各雄藩の大名も橋本景岳が人格識見を見抜いて、配置してはどうか、と提言しています。明治新政府の各省の大臣からすると、人物の格が相当上ですから、もし実現していたら、と興味深いものがあります。

 

景岳の雄大なる國策には、一點(いってん)の私も無く、また何一つ頑固な所もありません。しかるに景岳は、この國策をひっさげて、朝廷に説き、幕府に説き、諸藩に説いた爲に罪せられたのです。

 

・・・4へ続く。

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