教科書に載らない歴史上の人物 23 神武天皇以後の人物群像

長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室では、教科書に書かれていないことでも大事なことは教える工夫をしています。知識欲旺盛な子供さんは、学校での学習内容を超えて学んでいきます。

さて、今回は「神武天皇の國家建設」以後の歴史上の人物たちの群像です。

先にご紹介していました「少年日本史」(平泉澄著)。
現在学校で用いられているどの歴史教科書よりも格調高く日本の國史を紐解かれています。その「神武天皇」以後の「皇紀の(上)」をご紹介します。

「少年日本史」(平泉澄著 皇學館大学出版部)15頁〜19頁

少年日本史 皇紀(上)

 

「神武天皇が、実に重要な、そして偉大な御事業であったに拘らず、正確に、また詳細に、分からないところがありますのは、その當時の記録がないからです。

何故その當時の記録が無いのか、と云えば、不幸にして其の頃の我が國には、文字が無かったからです。

日本人の中に、文字を發明するものが無く、また外國から、文字を輸入する事も無かったからです。

 支那には、文字が、古い時代に發明せられ、書物が古くから作られていました。

それが朝鮮に傳わり、朝鮮から我が國へ入ってきたのは、應神天皇の御代(みよ)であったと傳られています。

卽ち應神天皇の十五年には阿直岐(あちき)、十六年には王仁(わに)、二十年には阿知使主(あちのおみ)等が帰化して學問を傳えました。

王仁は、漢の高祖の子孫で、西文氏(かわちのふみうじ)の先祖となり、は阿知使主(あちのおみ)は後漢の靈帝(れいてい)の子孫で、東文氏(やまとのふみうじ)の先祖となり、學問を以って、朝廷にお仕えしましたので、それからは記録が出来たでしょうが、それまでは只の言葉で云いつたえて来ただけです。

口傳(いいつたえ)だけとなれば、今日から考えると、非常に頼り無い氣がしますが、それは記録が發達し、文字に賴る事になった爲に、却って記憶力が衰えたからで、文字に賴らない人は、今でも記憶力の非常に強く、むつかしい事を能く覺えているのに驚く事があります。

殊に太古(おおむかし)には、語部(かたりべ)というものがあって、物語を暗唱して傳える事を、本務とし、専門としていましたから、たとえ文字が無いにしても出来事の大筋は、云いつたえられて来たでしょう。

それが應神天皇の御代から、段々文字に寫されて、記録が出来て来たでしょう。

それを整理して、我が國の歴史をまとめようとされたのは、推古天皇の二十八年に、聖徳太子が、天皇記・國記その他の歴史をお作りになったのが、最初(はじめ)でした。

その天皇記や國記等は、皇極天皇の御代(みよ)に、蘇我氏の亡びた時、蘇我氏の爲に焼かれましたが、一部分だけは、火の中より取り出されて、朝廷へ戻りました。

然し何分にも、それは不完全であったし、また諸家に傳わった記録には、色々誤りがあったので、第四十代天武天皇は、是等を整理し、昔からの口傳(いいつたえ)を秩序立てて、これを稗田阿禮(ひえだのあれ)に記憶せしめられました。

稗田阿禮は、勅命(ちょくめい)を受けた時に、年は二十八、生まれつき聰明(そうめい)で一度見聞した事は、二度と忘れぬ人でした。

然し此の人の壽命にも限りがあるので、第四十三代元明天皇は、漢字漢文の教養の深い太安萬侶(おおのやすまろ)に命じて、稗田阿禮の暗唱する所を、文字に記録させられました。

數箇月かかって、和銅五年(西暦七一二年)正月、それが完成して獻上せられました。

是が有名な古事記で、上中下の三巻に分かれています。

古事記は古い口傳(いいつたえ)を本にしたものですが、是れとは別に、聖徳太子以来の歴史家の努力があって、外國の歴史を参考し、諸家の記録を整理し、之によって口傳(いいつたえ)に缺けていた年月を補い、我が國の歴史を大成する計畫が進められていました。

それが第四十四代元正天皇養老四年(西暦七二〇年)五月に出来上がって、総裁舎人親王(とねりしんのう)より献上せられました。

日本書紀がそれであります。

内容も詳しくなって、全部で三十巻あります。

是れは正史として、非常に重んぜられました。

その後、その續篇がつぎつぎに作られ、續日本紀(しょくにほんぎ)、日本後紀(にほんこうき)、續日本後紀(しょくにほんこうき)、文徳實録(もんとくじつろく)、三代實録(さんだいじつろく)とつづき、日本書紀と合わせて、六國史(りっこくし)と呼ばれるようになりました。

 かように我が國の歴史を書いた書物の、一番古いのは古事記であり、それについで古いのは日本書紀ですが、古事記は第四十三代元明天皇の御代に作られ、日本書紀は第四十四代元正天皇の御代に完成したのですから、神武天皇との間に、天皇の御代(ごだい)にして四十數代のへだたりがあり、年月にして一千年前後の間隔があるとしなければなりません。

もっとも應神天皇の御代頃から、漢字を以って記録する事が、段々始まったとし、それが古事記や日本書紀の材料となったとしても、その應神天皇は、第十五代の天皇ですから、神武天皇との間に、十数代のへだたりがあります。

その十数代の間は、記録が無くて、専ら口傳(いいつたえ)に寄ったとしなければなりませんから、建國當時の事、人によって、傳えがまちまちであるのは、仕方の無い所でしょう。

そこで神武天皇の御東征も、安藝(廣島縣)に七年、吉備(岡山縣)に八年、御滞留になったと、古事記は傳えているのに、日本書紀では、前者を七十日ばかりとし、後者を三年とし、非常な相違が出て来るのです。

然し細かい點には、そのような違があっても、道順は同じであり、話の大筋は變っていませんから、大體は前に述べたような事であったとしてよいでしょう。

 只一つ困る事があります。

それは古事記には、御代々の天皇の御名(おんな)と、その御代の出来事が書いてありますが、それが何時の事で、そして次の記事との間に、幾年のへだたりがあるのか、が書いてありません。

つまり古事記は、物語としては、まことに面白いが、年表を書いて、年月順に整理しようとすると、それはできない仕組みになっているのです。

之にひきかえ日本書紀の方は、年月を明記してあって、時の流れと、出来事とが、ハッキリ分かるようになっています。

殊に神武天皇の御卽位を、辛酉(かのととり)の年、春正月朔日(はるしょうがつついたち)と明記し、それを基準にして、二年、三年とかぞえる事にしてあるので、その御卽位の年を、我が國の紀元元年(きげんがんねん)とし、之によって数えるのを、皇紀と云うのです。

その皇紀では、今年昭和四十五年は、二千六百三十年となっています。

 ところが、此の日本書紀の年立(としだて)に、困る事には、無理があるのです。

それは古い時代に、長壽(ちょうじゅ)の人が多いことです。

長壽と云っても、八十、九十ならば信用出来ますが、百数十歳、或いは二百数十歳で活動するとなれば、是れは疑わしいとしなければなりません。

そのような無理は、年立(としだて)を殆んど氣にかけていない古事記にも現れていますから、古事記や日本書紀の作られた時より、かなり前に、年立(としだて)の混乱があって、それが影響したのでしょう。

人によっては、古事記や日本書紀を貴ぶのあまり、その記事を鵜呑に呑込んで信用しようとする人もありますが、それは贔屓の引き倒しで、無理でしょう。

たとえば、神武天皇の御年、古事記には百三十七歳、日本書紀には百二十七歳とあり、第十代崇神天皇の御年、古事記は百六十八歳、日本書紀は百二十歳と記しているのです。

殊に甚だしいのは、第十四代仲哀天皇は、日本武尊(やまとたけるのみこと)の御子でありますが、日本書紀の記事を、そのまま見てゆくと、日本武尊のお崩(かく)れになってより、三十六年後にお誕生になった勘定になるのです。

何としても、是れはあり得ない事ですから、日本書紀の年立てには、大きな無理があり、そしてそれが古事記にも影響を與えている所から判断して、この二つの書物の書きおろされるよりは、ズッと前に、年立ての混亂、或いは無理な年立てが行われたに相違ありません。

・・・このような歴史の経緯は、敗戦後の日本では、子供達に教えられることはありません。何故ならば所謂「唯物史観」を物差しに、偏向した歴史観に基づいた執筆者などによって教科書が記載されているからです。従って、二千年以上にわたり継続した独立国として世界史上稀有な存在である日本の正しい歴史を学ぶ機会を得られないことになっています。

posted by at 19:59  |  塾長blog

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