長崎市江戸町にある難関大学・医学部を目指す幼児教室・学習塾 羅針塾では、学びの初めは「素読」から始まります。
幼児、小学低学年、中学年、高学年と、「素読」をし続けると、自ら行う「音読」が明らかに、滑舌良く正確に速くなります。
さて、「『大学』を素読する」から少しずつ本文をご紹介致します。
曽子曰わく、十目(じゅうもく)の視(み)る所(ところ)、十手(じゅっしゅ)の指さす所、其れ厳なるかな。
富は屋(おく)を潤(うるお)し、徳は身を潤(うるお)す。心廣(ひろ)く體(からだ)ゆたかなり。故に君子は必ずその意(こころばせ)を誠にす。
(現代語訳) (孔子の高弟)曽子が「多くの人が注目するところ、多くの人が指摘するところは厳正だなあ」と言われた。
富は家をうるおし徳は身をうるおす。従って、心は広く、体ものびのびとする。故に君子は、必ず自分の意識や感情を正常にするように努める。 *因みに、富と徳を具有することを両潤(りょうじゅん)と言う。
所謂(いわゆる)身を修(おさ)むるには、其の心を正しうするに在りとは、身(み)忿(ふん)ちする所有れば、即ちその正しきを得ず。恐懼(きょうく)する所有れば、即ちその正しきを得ず。好楽(こうらく)する所有れば、即ちその正しきを得ず。憂患(ゆうかん)する所有れば、即ちその正しきを得ず。心(こころ)焉(ここ)に在(あ)らざれば、視(み)て見えず、聴きて聞こえず、食いて其の味を知らず。此れを身を修(おさ)むるには、其の心を正しうするに在(あ)りと謂(い)う。
(現代語訳) よく言うところの「身を修るには、其の心を正しうするに在り」とは、例えば身(心の存する肉体)に怒を含んでいるときは正しく判断することはできない。恐れを懐いてる時は正しく判断することはできない。片寄って好んだり楽しんだりする所があれば正しく判断できない。甚だ心配する所があれば、正しく判断することはできない。心が散漫して止まる所がなければ、視ても其の真実が見えない。聴いても其の真実が聞こえない。また食べても本当の味がわからないということである。これを身を修るには、其の心を正しくすることにありと言う。
・・・如何に、心を正しく平常に保ち続ける必要があるか、と言うことですね。しかし、これがとても難しい。日々、修行です。