長崎市江戸町にある難関大学・医学部を目指す幼児教室・学習塾 羅針塾では、将来の日本を支える人になる為に、志を持って自ら学んで行く塾生を育てていきたいと考えています。
令和7(2025)年12月号の「致知」に」特集「涙を流す」と言う記事が目に付きました。様々興味を惹かれる記事があります。その中に、江戸時代の俳人小林一茶の話があります。引用してご紹介します。
涙にもいろいろな涙がある。嬉しい時も悲しい時も、人は泣く。
口惜し涙、無念の涙もあれば、喜びの涙、感動のあまり流す涙もある。人の生は常に涙と共にあるといってもよい。
心しなければならないのは悲しみの涙である。悲しみの餌食になって、人生を誤る人も多いからである。
(中略)
もう一つの話は、江戸時代に生きた俳人小林一茶である。一茶の句はユーモアにあふれているが、その人生が悲しみの極みのような人生であったことはあまり知られていない。
一茶は1763年、信濃(長野県)の柏原という寒村で生まれた。3歳の時に実母と死に別れる。父は再婚し、すぐ異母弟が生まれる。継母が気性の激しい人で、先妻の子の一茶をいじめる。父親がみかね、15歳になった時に江戸に奉公に出す。
39歳の時、無性に郷里に帰りたくなり、家へ帰った。父親は両手を拡げて迎えてくれたが、間もなく脳溢血で倒れ、再起できず、69歳で亡くなった。父親は一茶と弟が等分に分割相続するように遺言したが、折り合いがつかず、遺産争いは10年以上続き、ようやく折り合いがついた時、一茶は51歳になっていた。
その翌年、一茶52歳の時、28歳の菊と結婚、一茶は菊との間に60歳までに3男1女をもうける。自分が不幸だった分、子供には幸せになってもらいたいと願って、長男には千太郎、次男には強い子になれと石太郎、三男には貧乏しないように金三郎と名づけた。女の子にはさとと名づけ、なめるように可愛がった。
しかしこの子供たちが次々に死んでいく。まず長男は誕生の翌月に死去(一茶54歳)。その2年後に長女さとが生まれたが、1年後に死去した。さとが生まれ育っていく喜びを詠んだ句がある。
・・・断片的に、小林一茶の人生について知っていますが、一茶の俳句の面白さ、愛情あふれる表現は、なるほど!と思わせるものばかりです。ここに紹介するお話は、その時々の俳句の中に、我が子に対する悲しみや慈しみに溢れています。子を持つ親なら誰しも得心するお話です。
「這へ笑へ 二ツになるぞ 今朝からは」
「目出度さも ちう位也 おらが春」
一人娘の成長を見守る一茶の幸せそうな顔がみえるような句である。この頃が一茶の幸福の絶頂期だったといえる。
そのさとが6月の初めに天然痘にかかって発熱し間もなく死ぬ。
「露の世は 得心ながら さりながら」
「露の世は 露の世ながら さりながら」
一茶の悲しみ、無念が伝わってくる句である。
悲嘆の極みに一茶の心境は変化していく。こんな句を残している。
「ともかくも あなた任せの としの暮」
あなた任せとは、すべてを阿弥陀仏に任せて生きる覚悟をしたということである。
・・・一人娘の成長を楽しみにしている最中、天然痘で娘をなくすという冷厳な事実。思わず、一茶の立場に立たされると、自分ならどうするだろうかと考えてしまいました。
「露の世」と現生の儚さを一言で表す表現が、「露の世ながら さ(然)りながら」と続けます。
敢えて意訳すると、
露のように日が差すと、あっという間に蒸発してしまうように、人の命も儚ないものである。世の中のその儚さは重々承知しているが、それはそうであるが・・・(実に無念であるなあ。と)
先の句は 「露の世は 得心ながら さりながら」とあり、
仏の道に思いを致すと、幼い命であっても往生していると得心(心から納得すること)はしているものの、それでも尚、愛しい愛子(まなご;可愛い子、いとし子)が愛おしいなあ、と。
その翌年に次男石太郎が生まれるも、おんぶしている時に窒息死したといわれている。正月に石太郎の位牌の前にぞうにを供えて詠んだ句がある。
「もう一度 せめて目をあけ ぞうに膳」
「かげろうや 目につきまとふ 笑ひ顔」
その翌年、菊は三男金三郎を出産したが、1年を経ずして、この世を去った。行年37。その母のあとを追うように、金三郎も亡くなった。
一茶は62歳で天涯孤独となった。
これを機に、一茶は阿弥陀仏への信仰をさらに深めていった。普通の人なら絶望に打ちひしがれてしまうところだが、一茶は次々と襲い来る不幸を乗り越えて、再婚する。
この再婚は数か月で終わったが、この失敗にめげず、一茶は64歳の時、3度目の結婚をする。俳人として名声が広まった頃だが、大火事に遭い、これまで培ってきた本や財産をすべて失い、やむなく生家の裏の土蔵に住むことになった。この頃の一茶は少々のことに乱れない心の様相を持っていた。
土蔵の窓から葬式の列を見て詠んだ句がある。
「送り火や 今に吾等も あの通り」「極楽の 道が近よる 冥土かな」
そういう状況の中で3人目の妻やをが懐妊する。一茶も殊の外喜んだようだが、その子の誕生をみずに、一茶は死んだ。65歳の生涯だった。
「ああままよ 生きても亀の 百分一」
仏とはほどけた人、という言葉がある。一茶は数々の悲しみを経て、ほどけた人になったのだろう。晩年の句がそれを教えている。
常に悲観を懐きて、心ついに醒悟す──と釈迦は言った。常に深い悲しみを心に抱き、その悲しみを大切にして歩み続ける人はついに悟りに目覚める。
涙を流すことは心を浄化し、魂を高めることにつながる道なのかもしれない。
・・・小林一茶の人生は、波瀾万丈です。幸せを求めてささやかな人生を送ろうとしても、様々な困難、苦難が襲ってきます。現代と違い、食も貧しく子供にとっては栄養不足が日常で、薬も医者も無い。その中であっても、俳句を友とし、我が身と人生を客観視する。
多くの残された小林一茶の俳句は、時代を超えて私達に語りかけているようです。






