我国の二千年以上の統一国家としての連続性は世界に類を見ません。
しかし、その素晴らしさを学校教育の現場では子供達に教えることはありません。
長崎市五島町の羅針塾 学習塾・幼児教室では、日本や世界の近現代史についても、事実は事実として教えます。
平成二十八年八月八日、 今上天皇 明仁陛下「お言葉」がありました。
「戦後70年という大きな節目を過ぎ,2年後には,平成30年を迎えます。
私も80を越え,体力の面などから様々な制約を覚えることもあり,ここ数年,天皇としての自らの歩みを振り返るとともに,この先の自分の在り方や務めにつき,思いを致すようになりました。」
https://www.youtube.com/watch?v=yJemP–pXiY
大東亜戦争後の困難な道を昭和天皇と共に歩まれた今上陛下の「お言葉」の意味合いを考える意味でも、昭和天皇の事績の一端を振り返ってみます。
教科書に載らない歴史上の人物の再掲(加筆)です。
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昭和の日は、日本国における「国民の祝日」のひとつです。
国民の祝日に関する法律(祝日法)の一部改正によって平成19年(2007)に始まった祝日で、昭和天皇の誕生日である4月29日に毎年実施される。同法ではその定義・趣旨を、「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす」としている。
産經新聞の「元気の出る歴史人物講座」(平成21.4.29 )からの引用。
昭和の日を迎えた。
大東亜戦争の敗戦とアメリカの占領統治という日本民族最大の国難において、昭和天皇はご一身を擲(なげう)たれて終戦の聖断を下され、かつマッカーサーとのご会見に臨まれた。天皇のお心は御前会議における「自分はいかになろうとも万人の生命を助けたい」とのお言葉並びに、
「身はいかになるともいくさとどめけり ただたふれゆく民をおもひて」
との御製につきている。この精神を以(もっ)て全責任を負われ、マッカーサーに「私の一身はどうなろうと構わない」とまで述べられたのである。
陛下のこの高貴なる無私のご姿勢に、マッカーサーは「私は初めて神の如き帝王を見た」と深く感動し心を揺さぶられた。アメリカは皇室の存続は認めるものの、昭和天皇を戦犯として処罰せんとする企図を有していた。だがマッカーサーが強く反対したためアメリカは断念した。まことに国家未曾有の危機であったが、昭和天皇の捨て身のご行為により辛くもこれを脱し得たのである。
天皇はそれにつき一言も語られることなく逝かれた。
これほどの帝王がかつて世界に存在しただろうか。
昭和天皇の無私と至誠と慈愛により、国家と国民は救われたのである。
世界に類(たぐい)なき皇室を戴(いただ)くことは日本人としてこの上ない幸せである。
偉大なる昭和天皇
先に編纂発行された昭和天皇実録 (宮内庁)には、年代ごとの詳しい事績が記されています。
昭和天皇
明治34年(1901)4月29日 – 昭和64年(1989)1月7日。
日本の第124代天皇(在位:大正15年(1926)12月25日 -昭和64年 (1989)1月7日)。
諱は裕仁(ひろひと)。幼少時の称号は迪宮(みちのみや)。お印は若竹(わかたけ)。
詳細は記せませんが、エピソードの一端だけでもご紹介します。
前衆議院議員の西村慎吾氏のブログ記事から(http://www.n-shingo.com/jiji/?page=1195)の引用です。
少々長いですがご覧ください。
「昭和天皇実録」のなかで、
天皇が「落涙」されたと記されている箇所は、
天皇の十一歳の頃、
崩御された明治天皇の御後を追って大正元年九月十三日に乃木希典大将が割腹して殉死したことを
翌日十四日に知らされた時だけであると記した。しかし、「昭和天皇実録」ではないが、
天皇が落涙された記録がある。
それは、調寛雅(しらべ かんが)著、「天皇さまが泣いてござった」(教育社)である。昭和天皇は、
昭和二十一年から敗戦で疲弊した各地の国民を励ますために、全国巡幸を開始された。
昭和二十二年三月、天皇が九州に巡幸され、
佐賀県での第一番の行幸予定地が「因通寺洗心寮」と発表された。
「因通寺洗心寮」とは、戦争被災児救護教養所で、
その時、満州からの引き上げ孤児四十余名が収容されていた。五月二十四日朝八時五十分、
天皇の御料車が因通寺のある基山町に入られ予定地に停車した。
早朝から待機していた基山町のほとんど全人口と思われる人々から、
自然に「天皇陛下万歳」の声が湧き上がった。天皇は因通寺の山門から参道の坂を登られ、さらに二十三段の石段を登られて境内に入られた。
そして、待機していた県知事の挨拶を受けられ、
激戦地から生還してきた若い住職の説明を受けられた。
その時、天皇は、住職に歩み寄られ
「親を失った子ども達は大変可哀想である。
人の心の優しさが子ども達を救うことができると思う。
預かっている沢山の子ども達が、
立派な人になるように心から希望します。」
と申された。
緊張して身動きもせず聞いていた住職が、
「これら天皇陛下の子供らを・・・」と申し上げると、
天皇は、
「仏の子ども達」
と申された。
住職は、竦むように立ち続けていた。それから天皇陛下は、引き上げ孤児のいる洗心第一寮と洗心第二寮に歩を進められた。
各寮では、子ども達がそれぞれの部屋で陛下をお迎えすべくお待ち申し上げていた。
陛下は、各部屋の前に立たれて子ども達に御会釈をなされ、
そして、わが子に対するように、一人一人の子どもにお言葉をかけられた。
「どこから」
「満州から帰りました」、
「北朝鮮から帰りました」「あ、そう」
「おいくつ」
「七つです」、「五つです」「立派にね。元気でね」
陛下が次の部屋にお移りになられるとき、子ども達の口から
「さようなら。さようなら」
と自然に言葉が出た。
すると陛下は、
「さようならね。さようならね」
と親しみを一杯に湛えたお顔で、挨拶をなさった。ところが、このように部屋の前で、
陛下の方から子どもに話しかけられていたのに、ある部屋の前で、
陛下は、直立不動といってよい姿勢で立ち止まられ
一点を見つめて身動(みじろ)ぎもなさらなかった。
陛下の後に続いて廊下にいた侍従長、宮内庁長官、県知事そして警察本部長達は、
何事があったのかと足を止めて陛下を見つめた。その時陛下は、部屋の中の三人の女の子の真ん中の子が胸に抱きしめていた二つの位牌を
じっと見つめられていたのだった
そして、女の子に、静かな声でお尋ねになった。
「お父さん。お母さん」
「はい、これは父と母の位牌です」
「どこで」
「はい。父はソ満国境で名誉の戦死をしました。
母は引き上げの途中病のため亡くなりました」
「お一人で」
「いいえ、奉天からコロ島までは日本のおじさん、おばさんと一緒でした。
船に乗ったら船のおじさん達が親切にしてくださいました」
「お淋しい」
「いいえ、淋しいことはありません。
私は仏の子です。
仏の子は亡くなったお父さんとも、亡くなったお母さんともお浄土にまいったら、
きっともういちど会うことができるのです。
お父さんに会いたいと思うとき、お母さんに会いたいとおもうとき、
私はみ仏さまの前に座ります。
そして、そっとお父さんの名を呼びます。
そっとお母さんの名を呼びます。
すると、お父さんもお母さんも、
私のそばにやってきて私をそっと抱いてくれるのです。
私は淋しいことはありません。私は仏の子どもです」その時、陛下のお顔が変わったように随行の者は思えた。
すると、陛下は、部屋の中に入られた。
そして、右手に持たれていた帽子を左の手に持ちかえられ、
右手をすっと伸ばされて
位牌を抱えている女の子の頭をお撫でになった。何回も、何回も。
そして、おっしゃった。
「仏の子どもはお幸せね。これからも立派に育っておくれよ」
そのとき、天皇陛下のお目からはハタハタと数滴の涙がお眼鏡を通して畳のうえに落ちていった。因通寺の参道から県道までの道には沢山の人々が道の両側に座って陛下をお見送りしていた。
陛下は、「戦死者遺族の席」と啓示してある前で足を止められ、遺族に対して、
「戦争のために大変悲しいできごとが起こり、そのためにみんな悲しんでいるが、
自分も皆さんを同じように悲しい」
そして、一番前に座っている老婆に声をかけられた。
「どなたが戦死されたのか」
「息子でございます。たった一人の息子でございます」
「うん、うん」
「どこで戦死をされたのか」
「ビルマでございます。烈しい戦いだったそうですが、
息子は最後に天皇陛下万歳と言って戦死をしたそうです。
でも息子の遺骨はまだ帰って来ません。
天皇陛下様、息子は今頃どこにおるのでしょうか。
天皇陛下様、息子の命はあなた様に差し上げております。
息子の命のためにも、
天皇陛下様、長生きしてください。ワーン・・・・」
この老婆の言葉をお聞きになっている
天皇陛下の両方の眼鏡から涙が頬につたわっていた。