国語力を高めることを基本とする長崎市五島町の羅針塾では、塾生の成長を見守りつつ、各人に応じた学びを進めています。小学生以上の塾生は、日々の学校で何を学んできているかも、常に確認しつつ更なる向上を目指します。
今冬の武漢ウィルスの日本上陸以降、教育界はその対応に大童(おおわらわ)です。罹患(りかん)を避けるための休校要請を受け、学校は授業時間の確保に苦労しているのが現状です。
その最中に、「百人の会ML」(http://100prs.info)から送られてきた記事に共感を覚えました。これを引用してご紹介します。
川内時男先生の活動報告(基)
(元徳島県公立中学校校長)51、ゆとり教育の亡霊「アクティブラーニング」(拡散希望)
アクティブラーニングという言葉をご存じでしょうか。今全国の小・中・高校で行われている欧米発の授業形態の一つです。
骨子は・・・教師から教えてもらう「受動的な学習」ではなく、子供自らが進んで学習する「能動的な学習」ということです。
さすがは言葉遊びが好きな教育界、聞くほどに期待に胸が膨らみます。多くの国民も「受け身ではなく子供が進んで勉強するというのはいいことだ」と思うでしょう。
確かにこの授業は子供の体験学習やグループ・ディスカッション、そして子供達が意見を述べ合いながら授業を進めるのですから、教室も活気があります。
しかしその雰囲気とは裏腹に、多くの子供にとっては「活動あって学びなし」の自由時間になっていることが多いのです。
賑やかな授業と学力がつく授業とは違うのです。そして最も重要なこと、それは学習効率が悪過ぎることです。
教師主導でやれば短い時間で済むのに、この方法ではその数倍もの時間と教師の労力が必要です。
まさに労多くして功少なし、の典型です。コロナ肺炎による臨時休業で、学習の遅れを取り戻そうと必死になっている現在、教育界はこのような形の授業ではなく、
従来の授業スタイルの良さを見直し、学習効率を上げる必要があるのではありませんか。そもそもアクティブラーニングは大学の授業(一方的な講義形式の授業)を改革しようとしたのが始まりです。
それを文科省が軽率にも小・中学校教育に取り入れたのです。新しい学習指導要領では「アクティブラーニング」の言葉は消えましたが、
「主体的、対話的で深い学習」と言い方を変えて生き残っています。私は断言します。
アクティブラーニングでは子供に学力はつきません。
アクティブラーニングと聞けば、多くの人はこれまでになかった新しい教育のように思うかも知れませんが、実は「ゆとり教育」の焼き直しに過ぎないのです。さらに言えば、教育界はこれと同じ失敗を過去に三度もくり返しているのです。
一度目は大正時代です。大正デモクラシーの風に乗せられて教育が欧米化したことがありました。
日本の伝統的な教育法が時代遅れとされ、子供の主体性を尊重する欧米教育がよしとされたのです。
結果、子供の学力が深刻なほどに低下しました。二度目は戦後GHQの統治下でアメリカ式の教育が取り入れられた時期です。
これも子供の主体性を重視した教育だったのですが、やはり深刻な学力低下に見舞われました。
主権回復後、政府は直ちに従来の教科中心のカリキュラムに戻しました。そして三度目が「ゆとり教育」です。これによって、またまた子供の学力が低下しました。
現在、文科省は「ゆとり教育」から学力充実へと舵を切った、と言うことになっていますが、実は「ゆとり教育」はまだ終わっていません。
「アクティブラーニング」はその亡霊なのです。教育界は何度失敗すれば気がすむのでしょう。
・・・正に、正論(道理に適った主張)! と、思います。
文部科学省の改革という名の、改悪に等しい所業のように思います。小・中・高校の教科書を手に取ると実感しますが、文章が一見易しく(しかし漢字かな交じりの言葉が混在し)絵や写真を多用し、何より教科書の厚みが無い。力の無い(読解力の無い)子供にも分かるようにとの無用の配慮がそうさせているのでしょう。
「ゆとり教育」→「アクティブラーニング」→「主体的、対話的で深い学習」へと経るごとに、学力を低下させている実態を多くの親御さん方はご存知有りません。
羅針塾では、子供さん達のご縁のある学校の授業内容を確認しつつ、漢字教育を基礎に国語力を強化し、読解力、作文力、表現力を身に付けるように指導しています。
年齢を問わず、全ての教科を学ぶ前提としての語彙力・読解力を身につけること。これが最優先です。