幼児教室・学習塾の羅針塾では、我が国の伝統や歴史をしっかりと学ぶことが、塾生の「志(こころざし)」を醸成(じょうせい:ある気運を次第に作り上げていくこと)し、「学ぶこと」の意義を理解し、刻苦勉励(こっくべんれい:苦労をものともせずに、一所懸命に努力すること)できる人に育てていくと考えます。
宮崎正弘氏の新刊「こう読み直せ!日本の歴史」(WAC)にも取り上げられている和氣清麻呂(わけのきよまろ)は、二千年以上も継続して存在する日本の国体(国のあり様、国柄)を守った歴史上重要な人物です。
その対極にあるのが、弓削(ゆげ)の道鏡(どうきょう)。
弓削道鏡は、河内国弓削郷(大阪府八尾市)出身の僧侶です。孝謙上皇の看病僧として寵愛されました。仏教政治の時流に乗って政界に入った道鏡は、太政大臣禅師、ついで法王の位を授けられて、ついに皇位を望むに至りました。
その後の顛末(てんまつ)は、平泉澄著「少年日本史」(皇學館大学出版部)P.158〜からの引用でご紹介します。
神護景雲(じんごけいうん)三年(西暦769)の正月になると、道鏡は、大臣を始め、朝廷の高官の年賀の挨拶を受けています。時に左大臣は藤原永手(ふじわらのながて)、右大臣は吉備真備(きびのまきび)ですが、それらの大臣豪族、頭を下げて、年頭のご挨拶に行ったのです。
さあ、ここまで来ると、道鏡は間も無く天皇の位を狙うのでは無いか、という疑が出て来ました。
そうと見て、早手廻しにご機嫌を取って置こうとしたのが、九州の太宰府で神事を擔當(たんとう)していた習宜阿曾麻呂(すきのあそまろ)で、「八幡の神のお告げがありました。道教が天皇の位につけば、天下太平との事です。」と言い出しました。
流石に天皇は御心配になり、御信任の深い尼の法均(ほうきん)をやって、八幡の神のお告げ、本当か、どうか確かめたいと思召(おぼしめ)されましたが、夫人の身で九州まで行く事、容易で無い為、その弟の和氣清麻呂(わけのきよまろ)を代わりに派遣せられました。
清麻呂は、この時、近衛将監(このえのしょうげん)でした。将監は、長官・次官・判官・主典の四等官(律令制で諸官司の幹部)のうち、判官に當りますから、かりに云えば、近衛歩兵中尉とか大尉とか云うあたりでしょう。(中略)
清麻呂は、勅命を奉じ、姉に代わって九州へ下向しました。嗚呼(ああ)是の時、日本国の運命は、三十七歳、近衛将監、和氣清麻呂、是の人只ひとりの雙肩(そうけん)にかかったのです。清麻呂は宇佐(大分県)へ参り、八幡の神前にぬかずいて、謹んで神意をうかがいました。
忽然(こつぜん)として、神が出現せられました。仰せられるには、
我國は、開闢(かいびゃく)以来、君臣の分、定まっているのだ。しかるに道鏡、なんたる無道(ぶどう)であるか。臣下でありながら天位を望むとは。汝(なんじ)、帰って天皇に上奏せよ。天位は必ず皇統を以て継承されよ。無道の者は、早く取り除くがよい。
清麻呂は奈良へ帰り、ありのままに上奏しました。
怒ったのは弓削道鏡、清麻呂を因幡(鳥取県)へ追放しようとしましたが、また處分(しょぶん)を一層きびしく變更(へんこう)して、清麻呂を大隅(鹿児島県)へ、姉の法均を備後(広島県)へ流しました。
→続く
- ・・・旧拾円紙幣には、清麻呂公が印刷されていました。