英語と歴史を同時に学ぶ 「史実を世界に発信する会」の英訳教科書 2

長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室では、塾生が年代に応じた受験に取り組みます。目指すべき方針を決め、日々為すべき課題に自力でコツコツこなしていきます。

さて、『新しい歴史教科書』(新版・中学社会)(自由社)英訳シリーズ Chapter3の英和対訳部分からの引用です。http://www.sdh-fact.com/CL02_2/Chapter%203%20Section%201,%202.pdf

16世紀に来日したキリスト教の「宣教師の見た日本人」という外の目から見た日本というコラムです。

JAPAN AS SEEN THROUGH FOREIGN EYES ーHow Missionaries Saw the Japanese People

外の目から見た日本ー宣教師は(その当時の)日本人をどのように見たか。

An “outstanding” people with “fine dispositions”

In the sixteenth century, Christian missionaries who came to Japan were surprised to discover a proud and civilized people living on islands off the coast of East Asia. They were especially impressed by the absence of theft and high literacy even among Japan’s lower classes.

Father Francis Xavier wrote the following in a letter that he sent to a church in Goa, India:

“Of all the peoples I have encountered, the Japanese people are the most outstanding. Among the heathen peoples, I believe that none are greater than the Japanese. The Japanese people generally have fine dispositions. They bear no evil thoughts and are very pleasant to keep company with… Most of them are poor, but none among them, neither the samurai nor the commoners, see poverty as a disgrace.”

「傑出した国民」「良い資質」

 16世紀、日本にやってきたキリスト教の宣教師たちは、極東の島に思いかけず、文明化した誇り高い民族を発見して驚きました。何よりも、下層の日本人でさえ、盗みがないことや、読み書きができることに強い印象を受けました。

 神父ザビエル(筆者注1)は、ゴア(インド)の教会へ送った書簡にこう書いています。

 「日本人は私が遭遇した国民の中では、最も傑出している。異教徒の中で日本人に勝るものはあるまいと考える。彼らは相対的に良い素質を有し、悪意がなく、交わってすこぶる感じが良い。」「日本人は大抵貧乏である。しかし、武士たると平民たるとを問わず、貧乏を恥辱と思っているものは一人もいない。」

 

Prosperity and sophistication exceeding that of Europe

Head Missionary Cosme de Torres stated that the Japanese led prosperous and self-sufficient lives:

“The prosperity of this country exceeds that of Spain, France, or Italy. Everything that the Christian nations have, so too do the Japanese have. I could not recount all their good qualities without running short of ink and paper.”

The more that Father Organtino learned of the Japanese people, the higher an opinion he held of them:

“We Europeans see ourselves as a sophisticated people, but compared to the Japanese, I believe that we are utter barbarians. Indeed, I must confess that I learn new things from them every day. There may be no other people in the world with so much innate talent.”

ヨーロッパをしのぐ豊かさと賢明さ

 布教長トルレス(筆者注 2)は、日本人の暮らしが自給自足していて豊かだと言います。

「この国の豊かさはスペイン、フランス、イタリアをしのいでいる。キリスト教国にある一切のものが、この国にある。彼らの長所を数えてゆけば、紙とインクの方が先に尽きてしまうであろう。」

 オルガンチーノ神父(筆者注3) は、日本人を知るにつれて、さらに高い評価をしています。

「私たちヨーロッパ人は互いに賢明に見えるが、日本人と比較すると、甚だ野蛮であると思う。私は本当のところ、毎日、日本人から教えられることを白状する。私には全世界でこれほど天賦の才能を持つ国民はいないと思う。

 

The differences between Japanese and European culture

Still, not all the missionaries spoke well of the Japanese people. Head Missionary Francisco Cabral was a narrow-minded man who refused to ordain Japanese men into the priesthood or teach them Latin. He made the following callous remark:

“The Japanese converts in our order lead cooperative and obedient lives only because they have no other means of survival.”

However, Alessandro Valignano, a Jesuit Visitor from eastern India, removed Cabral for holding views prejudicial to the propagation of Christianity in Japan. According to Valignano:

“The Japanese are neither ignorant nor apathetic enough to kowtow to foreign domination. We have no option but to entrust the leadership of our churches in Japan to Japanese people.”

Father Luis Frois, author of the book The History of Japan, described a long list of stark cultural contrasts between Japan and the West, expressing particular confusion over the fact that, “Japanese people can cut off the head of a criminal without a second thought, but are astonished that we kill animals.”

For the missionaries, Japan was truly a mysterious country.

ヨーロッパと日本の文化の違い

ただし、誰もが日本人をよく言ったわけではありません。布教長カブラルは、日本人を司祭に登用せず、ラテン語も学ばせまいとした心の狭い人でした。彼は冷淡にこう言っています。

「彼ら日本人教徒が(修道会に入って)共同の、そして従順な生活をしているのは、ほかに生活手段がないからだ」

しかし、東インド管区巡察師ヴァリニャーノ(筆者注4) は、カブラルのような態度は布教の妨げになるとして解任し、こう述べました。

「日本人は、外国人の支配に耐え忍ぶほど無気力でもなければ無知でもない。日本の教会の統括は日本人に委ねるよりほかに考えるべきではない。」

『日本史』を書き残したフロイス神父は、日本と西洋が全く正反対である点を列挙して「日本人は罪人を平然と斬首するが、家畜を殺すと仰天する」と首を傾げています。

彼らにとって日本はやはり「不思議の国」だったのです。

・・・現在の中学生が学ぶ歴史教科書では、この自由社の歴史教科書は全国的にほとんど採択されていません。しかし、多くの中学生が用いているもので、安土桃山時代の近世の歴史を多角的に、且つ興味深い挿話を入れて説明している教科書は、なかなかお目にかかれません。

因みに、日本に来た宣教師たちの人となりや、その後の話など、よほどの歴史の先生でない限り触れることはないでしょう。興味のある方は、下記の筆者注をご覧ください。長崎との関わりなども触れられています。

 

ザビエル

(筆者注1)Francisco Xavier(フランシスコ ザビエル)

1506年4月7日、スペイン バスク地方ナヴァーラ王国、ザビエル城で裕福で敬虔な貴族領主の5人の末子として出生。6才の時父を亡くし兄弟も家を出たため孤独な少年期を過ごす。彼の生涯は孤独と劣等感との闘いであった。彼の篤い信仰と神への信頼は強く困難に立ち向かう精神力は持っていた。情熱と喜びをもって旅を続けることが出来たのは幼少期の経験からきたものである。イエズス会設立者(7人)の内の一人、

(筆者注2) Cosme de Torres(コスメ デ トルレス)

(1510年 ~ 1570年10月2日)スペイン・バレンシア出身、1546年モルッカ諸島でザビエルと出会いインドのゴアへ行き司祭となる。ザビエル や日本人ヤジロウと共に日本へ出立し1549年8月15日鹿児島に到着。都へ向ったザビエルと別れてトルレスは平戸に残り、1551年にザビエルがインドへ向けて日本を去ると布教の責任者になる。ザビエルが去る時後を託されて死ぬまで日本に留まり宣教活動を続けた。琵琶法師であったロレンソ修道士などの協力を受けて山口や九州の各地でキリスト教は広まった。山口では6年にわたり布教し2000人の信徒を得た。1556年山口を去り豊後の府内へ移る。1559年都での布教のためガスパル・ヴィレラ神父らを派遣した。織田信長の支援を受け畿内での宣教は進んだ。1563年には大村純忠に洗礼を授け日本初のキリシタン大名が生まれた。1570年6月に新しくフランシスコ・カブラル神父が派遣されると間もなくトルレスは1570年10月2日天草で死去した。

(筆者注3) Organtino Gnecchi‐Soldi(オルガンティーノ ニェッキ ソルディ)

(1533 ~ 1609年4月22日)北イタリアのカストで生まれ。22歳でイエズス会に入会した。ロレートの大神学校、ゴアの大神学校で教えた後日本に派遣された。1570年6月18日天草に上陸後、ルイス・フロイスと共に都での宣教を行った。1577年から30年間都での布教責任者をつとめた。明るく魅力的な人柄から日本人に好かれ布教にも大いに役立った。30年以上日本で衣食住すべて日本人と同じように暮らし日本を深く理解し愛した。オルガンティーノは1576年にともに都に住んでいたフロイスと教会(南蛮寺)を建立。この教会は敷地が狭いため三層にせざるを得ず周囲を見渡すことができるほどの高さで威容を誇った。1580年には安土で織田信長から与えられた土地にセミナリヨを建てた。本能寺の変後安土城は破壊され城下のセミナリオも放棄された。信長の死後1582年未だキリシタンへの対応は寛大で1583年に大阪城に秀吉を訪問すると歓待を受けた。高山右近の城下高槻に新しい土地を得てセミナリオは設置された。1587年に最初の禁教令が出されると、都の南蛮寺は打ち壊された。オルガンティーノは右近とともに 小西行長の領地小豆島に逃れた。翌年 右近が加賀前田家に行くことになると、オルガンティーノは九州に向かった。1591年天正遣欧少年使節の帰国後、彼らと共に秀吉に拝謁。前田玄以のとりなしで再び京都在住をゆるされた。1597年、日本二十六聖人が京都から長崎へ向かう際に拷問を受けた時には、彼らの遺物を受け取っている。その後長崎へ行くが1609年76才で病死する。

(筆者注4)Alessandro Valignano(アレッサンドロ ヴァリニャーノ)

(1539年2月15日 ~ 1606年1月20日)イタリアナポリ王国のキエーティで貴族の家に生まれ、パドヴァ大学で法学を学び1566年にイエズス会に入会した。1570年叙階、1571年から修練院で教える。1573年、東インド管区の巡察師になる。1574年3月21日にリスボンを出発し、同年の9月にゴアに到着、管区全域を視察。インドの視察を終えた後1577年9月にゴアをたち10月19日マラッカに来る。1578年9月、マカオに到着、中国での宣教のためにミケーレ・ルッジェーリ Michele Ruggieri が派遣されて来ると、後を彼に任せて1579年7月日本へ出発した。巡察師としての彼の役目は各地の布教地でのイエズス会の活動を視察し問題があれば会の規約を正すなどして解決する権限を持っていた。1579年7月25日九州の口ノ津に着く。1579年来日後間もなく信長に初めて接見する。1582年まで滞在する間、生活物資は現地調達で賄い、主従関係の厳しい日本の階級社会に合わせて領主や上級武士を信徒にすれば布教は進むことを学んだ。これが「適応主義」と呼ばれる方法でり、自らをその地の文化と風習に適応させるという方法である。1581年、”Il Cerimoniale per i Missionari del Giappone”「日本布教のための儀典書」を記した。彼は当時の日本では人を身なりや外見で判断することを悟り、日本人たちと同じように振舞うべきだと考えた。城での大名との会見の際は彼らは最上の身なりで従者を従えて歩いた。このことが傲慢で贅沢であるとヨーロッパで非難されることにもなったが、日本人からは歓迎され大いなる信頼を得た。1580年、肥前有馬と近江安土に小神学校(セミナリヨ Seminario)、1581年に豊後府内に大神学校(コレジオ Collegio)、そして1580年に豊後臼杵に入会希望者のための修練院(ノヴィシャド Noviciado)を創設した。1581年夏、織田信長との安土での最後の謁見では、天守は提灯の明かりで照らされるなか迎えられ、贈られた安土城の屏風は教皇グレゴリウス13世に献上されることになった。1582年、天正遣欧使節を計画しイエズス会員に伴われた 4人の少年たち (伊東マンショ、原マルティノ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン)はヨーロッパへ出発、ヴァリニャーノはゴアまで付き添って行き彼らの帰国する時までゴアに残る。使節団は各地で大歓迎を受け教皇謁見の際にも温かくもてなされた。少年たちは8年にわたりヨーロッパに滞在するうち西欧流の教養を身に着け立派な大人に成長していた。1590年、帰路ゴアに立ち寄った遣欧使節と合流し再び来日、1591年に青年たち遣欧使節と聚楽第で秀吉に謁見した際、西洋の楽器を演奏し太閤も満悦であった。また初めて活版印刷機を持ち込み、「キリシタン版」とよばれる書物を印刷した。この時の訪問は1592年10月まで続き国内を自由に旅することが許された。1598年最後の来日、「適応主義」のイエズス会と従来のヨーロッパ方式であるフランシスコ会、ドミニコ会との間に起きていた対立問題の解消に努めた。1603年日本を去り、3年後にマカオで死去した。

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