長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室 https://rashinjyuku.com/wp では、小学校からは学校の「授業」をしっかり学ぶことが何よりも大事だと考えています。近年の一部の風潮に、受験の為に学校での授業や教科書を大事にしなくてもよい、といったことが行われている例があります。これは学校の先生方に「授業力」がないことが原因とも言われています。戦後の日本の教育する力を貶める施策(米国主導)である師範学校の廃止は、七〇年経過すると、大きなマイナスとなって日本の教育に影を落としています。
さて、日本の教育界で長年教鞭をとられ、、教育の技術を法則化する運動をされている向山洋一先生の記事が目につきました。産経新聞(2018.4.4)の「優れた授業は努力からうまれる お手本を見て学び、何年もかけて」からの引用です。http://www.sankei.com/life/news/180404/lif1804040006-n1.html
授業の上手(うま)い教師がいる。下手な教師もいる。下手な教師は上手くなるように努力しなければならない。上手い教師のお手本を見て学び、やってみる。問題点を指摘され修正する。簡単な道のりではない。何年もかかる。誰だってそうやって上達していくのだ。
ところが、校内研でも教委の研修でも、「授業の上手さ」について、ほとんど検討されていないという。指導主事や管理職が主に指摘するのは「『めあて』と『振り返り』を板書したか」「1時間の学習の流れを構造的に板書したか」といったことだ。しかも形式的すぎる。例外を認めない。ベテラン教師でも従うよう指示される。板書の仕方が全クラスで統一されていることを誇らしげに保護者に語る校長もいる。形だけは同じだが、子供をひきつけるエネルギーがその授業にはない。
授業によって子供たちが熱中したのか、学力は上がったのかが大切である。その大切な点を見ていないのだ。
私は、授業は上手い方であったと思う。全国からの参加者が千人以上になる公開研を幾度も経験してきた。筑波大付属、広島大付属、新潟大付属などでの公開授業をしてきた。著作も数多く著してきた。しかし、「めあてと振り返り」を板書したことは一度もない。「構造的な板書」もしていない。
それでも(だからこそ)、子供たちの学力は上がった。教室のすべての子が熱中して学習に取り組んだ。教師の力量とは「めあてと振り返りの板書」といった形式的なことにあるのではない。熱中する授業をするところにある。新しい学習指導要領では子供たちの「主体的・対話的で深い学び」が重視される。討論的な授業が期待される。この方針がすべての教室で生かされることを願う。
授業の力量を上げ、子供たちを引きつけるためには原則的なことを学ぶことがまず必要だ。
『授業の腕をあげる法則』という私の本は、教育書では史上最も売れたベストセラーでありロングセラーである。三十数年前に出版され、毎年数回増刷されこれまでに50万冊以上が先生方の手に渡っていった。この本の中で私は、授業の原則を10カ条にして示した。例えば「指示するときはその意味を説明しなさい」「一時に一事を指示しなさい」「発問・指示は短く限定して述べなさい」といったことである。
次のような原則に基づく授業行為が必要なのである。
(1)授業の導入でどのように子供たちを引きつけていたか。
(2)教師の発問は子供たちをどのように思考させていたか。
(3)指示は全員の子供をまきこみ、適切に活動させていたか。
(4)授業のリズム・テンポ、時間配分等は流れるようであったか。
(5)にこやかに子供と目線を合わせて授業を展開していたか。
こういった内容がもっと大切にされなければならない。TOSSでは文部科学省の委託事業を受け「若手教員の授業力」について研究した。ぜひアクセスしていただきたい。(toss.gr.jp/kyoushiryoku/)
戦後、師範学校が廃止され、教員養成はリベラルアーツの学部として出発した。師範学校で教えていた授業技術や学級経営などの実務に優れていた教員たちは職を追われた。海外の教育思想は紹介されるようになったが、発問の仕方も、机間巡視の仕方も分からない素人同然の教員が大量生産された。
日本の教師の長い年月をかけた努力をひきついでいくことをTOSSは自分に課している。
・・・熱意を持ち意欲のある先生方は沢山おられるはずです。ところが指導や訓練する「先生の先生」や「先生の先輩」を配置し、研修システムを充実しなければ、先生方の力量を上げていくことは出来ません。子供さんたちの学力の低下は、先生方の教育力・指導力の低下がもたらしていると言っても過言ではありません。意欲ある先生方を応援していかなければ、未来ある子供達の学力を上げることは出来ません。