長崎市五島町にある難関大学・医学部を目指す幼児教室・学習塾 羅針塾では、これからの日本を支える子供達にしっかりと「学ぶ力」をつけていって欲しいと考えます。
当塾では、近い将来「難関大学・医学部」を目指すことができる塾生を育てること、が目標です。
なぜそのように考えるようになったか。
「ときは世につれ、世はときにつれ」と申しますが、変わらないものは、親が子の幸せを願う心です。
日本人が、おそらく遥か遠い昔から、子を慈しむ、子の幸せを祈る、というのは変わらない事実です。
親がどれほど財産を残そうとも、どれほど地位を残そうとも、その子が自ら生き抜いていく力を身につけなければ
泡沫(うたかた)の泡(あわ)の如し、です。
「実語教」に、
山高きが故に 貴からず (やまたかきがゆえに たっとからず)
樹有るを以て 貴しとす (きあるを もって たっとしとす)
人肥へたるが故に 貴からず (ひとこえたるがゆえに たっとからず)
智有るを以て 貴しとす (ちあるをもって たっとしとす)
富は是 一生の財 (とみはこれ いっしょうのざい)
身滅すれば 即ち共に滅す (みめっすれば すなわち ともにめっす)
智は是 万代の財 (ちはこれ ばんだいのたから)
命終われば 即ち随って行く (いのちおわれば すなわち したがって いく)
玉磨かざれば 光無し (たまみがかざれば ひかりなし)
光無きをば 石瓦とす (ひかりなきをば いしかわらとす)
人学ばざれば 智無し (ひとまなばざれば ちなし)
智無きを 愚人とす (ちなきを ぐにんとす)
倉の内の財は 朽つること有り (くらのうちのざいは くつることあり)
身の内の才は 朽つること無し (みのうちのざいは くつることなし)
千両の金を 積むと雖も (せんりょうのこがねを つむといえども)
一日の学には 如かず (いちにちのがくには しかず)
・・・正に、実語教に書かれている通りです。
実語教は平安時代から明治初期にかけて普及していた教訓です。
「一日学ぶことは、千両の金を積むよりも価値がある」
これに気付くことができれば、「学ぶこと」の方向性が決まります。