『大学』を素読する 6

長崎市江戸町にある難関大学・医学部を目指す幼児教室・学習塾 羅針塾では、学びの初めは「素読」から始まります。

冬休みなどの長期休暇には、幼児から小学生、中学生、高校生と揃うときがあります。年長者が発語し、それに唱和する。百人一首形式の論語カルタから始まり、更に「修身」「論語」「大学」「孝経」「実語教」などから三十分程度正座で素読します。幼児にとっては、聞いたことも使うこともない言葉が出てきますが、素読を重ねていくと大きな声で年上の塾生に負けじと唱和します。

さて、「『大学』を素読する」から少しずつ本文をご紹介致します。

詩に云わく、於戯(ああ)前王(ぜんのう)忘れられずと。君子はその賢を賢として、其の親(しん)を親(しん)とす。小人(しょうじん)は其の楽しみを楽しみとして、其の利を利とす。此(ここ)を以て世を没(おわ)りて忘れられざるなり。

(現代語訳) 詩経(周公烈文篇)に「ああ前王忘れられずとある。これは後の君主は、前王の尊敬した賢者を同じく賢者として尊敬し、又前王の親愛した人を変わらず親愛した。又一般庶民は前王の遺(のこ)した楽しみを同じく楽しみとして、其の利としたところを利として恩沢を長く享(う)けている。この故に亡くなられてもながく忘れられないのである。

子(し)曰(のたま)わく、訟(うったえ)を聴くこと吾(われ)猶(なお)人のごときなり。必ずや訟(うったえ)無(な)から使(し)めんかと。情(まこと)無き者は、其の辞(ことば)を盡(つく)すを得ず。大いに民の志(こころざし)を畏(おそ)れしむ。此(これ)を本(もと)を知ると謂(い)う。

此(これ)を本(もと)を知ると謂(い)う。此(これ)を知の至(いた)りと謂(い)うなり。

(現代語訳) 孔子が「訟(うったえ)を聴いて判決を下すのは自分も他の裁判官と変わることはない。然し私の窮極の願いは訟(うったえ)の無いような世の中にすることだ」と言われた。真実(まこと)のない虚偽(うそ)の訟(うったえ)は、結局言葉を尽くして言い張ることが出来なくなるものだ。要するに民が自ら省みて、自ら畏れて訟(うったえ)が出来なくさせる。

これを人の道の本を知るというのである。これをまた知の至りともいうのである。

・・・なかなか意義深い言葉です。

素読をする際には、其の言葉の解釈まではしません。「読書百遍意自ずから通ず」即ち、「難しい書物であっても、何度も繰り返して読めば、其の意味は自然にわかってくるものである。それ故、解らないと思ってもすぐに諦めるのではなく何度も読むべきである」とする教え。

筆者は、教科書などを紐解いている際に「分からない」というと、母親から「読書百遍意自ずから通ず」と諭され、其の意味も含めて辛抱して努力することの大事さを繰り返し繰り返し諭されました。

posted by at 18:27  |  塾長ブログ, 国語力ブログ

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