現在の社会科目や国語の教科書などに、ワクワクドキドキするような冒険や探検談が掲載されることはありません。
長崎市五島町の羅針塾 学習塾・幼児教室では、子供達には想像力をかき立てるような冒険や探検談を是非音読して欲しいと考えています。
さて、教科書に載らない歴史上の人物の再掲(加筆)です。
***************************
日本人の冒険家は、過去様々歴史に名を残しています。
例えば、
間宮林蔵
19世紀末、19歳から43歳まで蝦夷地(北海道)全土や樺太を命がけで探検。伊能の北海道地図作りに大いに貢献した。 特に樺太の探検と地図作りによって間宮海峡を発見し、樺太が島であることを示した。
白瀬中尉
1912年日本人初の1年7ヶ月にも及ぶ南極探検実施 以後の南極探検への道を開く。
植村直己
1970年日本人初エベレスト登頂
1978年世界初北極点犬ゾリ単独到達
1984年世界初マッキンリー冬季単独登頂。
しかし、まさに歴史や地理の教科書に掲載すべき偉業を達成された方がいます。
「元気のでる歴史人物講座」日本政策研究センター主任研究員 岡田幹彦氏の記事(産經新聞)から・・・
<極寒シベリア単騎で踏破> 福島安正
明治時代、世界を驚嘆させた日本人の第1号が福島安正である。
明治25~26年、冬期のシベリアを世界で初めて単騎横断した軍人(陸軍中佐)であった。明治24年に着工したシベリア鉄道はロシアの極東侵略の最大の戦略的武器とされた。
完成したのが明治35年である。10年後必ず日本は国家存亡の重大な危機に直面すると洞察した福島は、ロシアの東洋進出の実態を探るため単騎シベリア横断を企図した。
公然たる情報活動は許されないから、あくまで個人の冒険旅行として、ヨーロッパからアジアを唯一人、騎馬で横断するという形をとった。
氷点下50度の極寒期のシベリアを踏破することは人間の力では不可能とされていたのである。
福島は明治25年2月、ベルリンをたち、ペテルブルグ、モスクワを経て12月から翌年3月にかけてバイカル湖から黒龍江沿いに進み、満州のチチハル、吉林を通り、6月、ウラジオストクに着いた。
全行程1万4000キロ(東京-稚内の14倍)である。
この間、事故で重傷を負い九死に一生を得た。前人未踏の一大快挙の知らせは内外を駆けめぐり、福島の名は世界中に轟(とどろ)き渡った。10年後を見据えた福島の情報活動は日露戦争の勝利を導く上に不可欠であった。
福島が千辛万苦して情報収集に尽力したのはひとえに日本の独立と生存のためであった。
日清戦争勃発は、明治27(1894)年、日露戦争勃発は、明治37(1904)年。
日本の国難を予測し、それに先んじることそれぞれ二年と十二年。
軍事的な諜報活動の一環ですが、冒険という意味でも素晴らしい偉業です。
冬期のシベリアを世界で初めて単騎横断、つまり馬とともに完走したということです。
現在のように、機材や防寒着、また支援体制が整った時代でも、騎馬で完走するのは至難の業です。
それを、馬をいたわりつつ共に進む。まさに艱難辛苦の旅であったことでしょう。
日本人の素晴らしさを後世や子孫に伝える為に、国史(国の歴史 現在の科目名では日本史)はあるべきです。
しかし、憂うべきことながら、戦後の教科書は世界的な偉業である客観的な事実さえ掲載していません。
当然、その事実は子供たちや親にも、知らされていません。
福島安正とは
国際派日本人養成講座 http://www2s.biglobe.ne.jp/%257enippon/jogbd_h17/jog418.html
人物探訪: 「福島安正・陸軍少佐のユーラシア単騎横断」 からの逸話の引用です。
福島安正は嘉永(1852)年、長野・松本藩士の家に生まれ、大 学南校(後の東大)を経て、明治7(1874)年、英語力を買われて陸軍省に採用された。
西南戦争では長崎に集結した列強の艦隊の動向を探り、異国の乗組員と酒を酌み交わしながら、特にどこかの国が西郷軍を支援する事はないだろう、という貴重な情報を官軍の征討参軍・山県有朋にもたらした。
ここから安正は情報将校としての道を歩み出した。明治24(1891)年1月、安正はユーラシア大陸横断の計画を立て、参謀本部に旅行申請を提出した。
明治26(1893)年の紀元節にベルリンを出発。3月24日、安正はロシアの首都ペテルブルクに入った。
42日間で1850キロ、日本で言えば鹿児島-仙台間を走破したのである。
ロシア側は安正の動きをつかんでいたと見えて、市の南門の10キロ手前で騎兵将校が出迎え、騎兵学校の貴賓室に案内され、賓客として扱われた。広大な大陸に育ったロシア人ですら、ユーラシア大陸の単騎横断などという大行軍を成し遂げた騎兵はいない。
その勇壮なる企てに、彼らは感激したのである。安正はここで半月ほど過ごして、情報収集にあたった。
ロシア陸軍の総兵力、編成が明らかになった。
それは日本の14倍という規模であった。
さすがにロシア陸軍の華とされる騎兵隊は、軍紀粛正で訓練に熱心な精鋭ぞろいであった。
日露戦争では、この騎兵に苦しめられることになる。しかし、歩兵や砲兵の練度はムラがあり、ロシア王朝の頽廃に影響されてか、軍紀も弛緩し、皇帝への忠誠心にも疑問があった。
3月30日、安正は皇帝アレクサンドル3世への拝謁を仰せつかった。
皇帝は安正のユーラシア横断に非常な興味を抱いていた。
「少佐は何語を話すのか?」とまず聞かれたが、「ドイツ語でもフランス語でも、英語、ロシア語でも、陛下のお宜し い方で結構でございます」と答えた。
そこでフランス語の会話となったが、安正が中国語も出来ると知ると、皇帝は驚いて、語学談義に花が咲いた。(中略)
6月1日、満洲と朝鮮を隔てる険しい山を越えると、安正は思わず、声を上げた。
「おう、海が見えるぞ!」
前方遠くに見える青い海、日本海である。
安正の両眼から涙が滴り落ちた。祖国、、、あの青い海の向こうに祖国があり、皇居のある東京もあるのだ、、、陛下、臣安正は今、祖国を望む地点まで帰ってきましたぞ。
そこからは再びロシア領に入り、6月12日、安正はついにウラジオストクに到着した。
ちょうど1年4ヶ月で1万4千キロを踏破し、見事に任務を遂行したのである。大勢の日本人が万歳で出迎えた。到着の知らせは国内外に伝わり、世界中の新聞が世紀の壮挙と大きく報道した。
安正はウラジオストクから3頭の愛馬とともに、東京丸で日本に向かった。
6月29日午後、横浜港に着くと、児玉源太郎陸軍次官や家族が出迎えていた。
さらに安正を驚かせたのは、明治天皇から差し遣わされた侍従が「天皇陛下より賜る」といって、暖かいねぎらいの言葉とともに勲三等旭日重光章を授与した事だった。7月7日には皇居で明治天皇に御陪食を賜った。
乗馬を好まれる陛下は、安正が3頭の馬を東京まで連れ帰った事を聞かれると、「それはよいことをした。安正はまことの騎兵将校じゃ」と喜ばれた。
明治天皇のご沙汰で、3頭の馬は上野動物園で余生を送ることとなった。この11年後に日露戦争が始まった。
安正は児玉源太郎・総参謀長のもとで、情報収集・背後工作を続けた。
日露戦争は薄氷を踏むような勝利だっただけに、安正のもたらした情報がなければ、戦局はどう転んだか分からない。