洋の東西を問わず、歴史に名を残すような人物にとって、両親、特に母親の感化する力には大なるものがあります。
長崎市五島町の羅針塾 学習塾・幼児教室の塾生のお母さんも同様です。
歴史上表に出てはこなくても、「女は弱し、されど母は強し」です。
子供を感化教育するのは、何よりもお母さんであることは疑う余地がありません。
さて、教科書に載らない歴史上の人物の再掲(加筆)です。
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現在の日本史の教科書の面白みの無さは、そこにドラマや人間の匂いを感じさせるものがないことからきていると思います。限られたページ数の中では、事実の列挙に終始せざるを得ない(?)。
たとえどんなに教科書が厚くなっても、エピソードやドラマを織り込むようなものであれば、子供たちは自然と引き込まれるはずです。むしろ、常用漢字などにとらわれずに難しい言葉にはルビを振ることで、漢字・熟語、語彙力が増えるような編集の教科書ならば、歴史のみならず、国語力も高めていくことは間違いありません。
「元気のでる歴史人物講座」日本政策研究センター主任研究員 岡田幹彦氏の記事(産經新聞)から・・・
<松陰を育てた母の慈愛> 杉 瀧子
安政六(1859)年、野山獄にいた吉田松陰は幕府の命令により江戸へ檻送(かんそう)されるとき、獄司のはからいで一晩、わが家に帰された。
杉家(養子に行く前の実家)では両親兄弟らが待っていた。母の瀧(たき)子は風呂をわかし、松陰の背中を流しつつこう言った。
「寅次郎(松蔭の幼名)よ、今一度江戸から無事帰って気嫌のよい顔を見せておくれ」
江戸送りは容易ならぬ事態であったが、母として子の無事帰還を望むのは当然の親心である。
松陰は死出の旅路と思ったものの、こう答えた。
「母上様、必ず無事に帰ってお目にかかりますから、ご心配ご無用でござります」萩から遠く外へ出るとき見送る場所にある松の木は、人々が惜別の涙を流すので涙松といわれた。
松陰がここで詠んだ歌が
「かへらじと思ひ定めし旅なればひとしほぬるる涙松かな」
である。10月27日、松陰が死刑にされたとき、父の百合之助(ゆりのすけ)と瀧子は病気になった家族の看病疲れで日中うとうと、うたた寝をしていた。
すると父は目を覚まし、
「いま私は首を斬られた夢を見たが誠によい心地であった」
と告げた。
瀧子は
「私はまた寅次郎が只今江戸から帰った夢を見ましたが非常によい血色でありました」
と言った。松陰が斬られたちょうどそのとき、松陰の魂は父母の夢路にあらわれて最後の別れをしたのである。
至孝の人であった松陰は母への約言を守った。松陰のような人物が出たのは、立派な父とこの慈母、瀧子が存在したからである。
江戸時代は、儒教の考えに基づき「君に忠、親に孝」という心持ちが常識でした。
とくに、「親孝行」は、身分の上下を超えて奨励され、また自然でもありました。その中でも特に「親孝行」な庶民には、藩主自ら褒美を授けて他の模範として表彰するほどです。
江戸時代の文化や教育など、現代の日本人が範とすべきことがたくさんあります。
杉 瀧子
吉田松陰の母。
江戸後期から明治時代の女性。文化4年1月24日生まれ。
児玉家の養女となり,杉百合之助(ゆりのすけ)に嫁ぎ3男4女を生む。
次男松陰が松下村塾をひらくと,これをよくたすけ世話をした。
晩年仏門に帰依した。明治23年8月29日死去。84歳。山口県長門出身。
吉田松陰の両親について記された「吉田松陰の母」福本義亮 著(誠文堂新光社 昭和16年)からの引用です。
国立国会図書館デジタルコレクション(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1058285/31?tocOpened=1)
厳と愛の交響教育が、あの忠孝兩全の偉大なる松陰先生を完成した所以である。
(中略)
形式的に観れば、父たるものは外的であり動的である。
母たるものは内的であり、静的である。
内的に観れば父は厳であり、指導的である。
母は愛であり、完成的である。
その父母の厳と愛との合作が家庭兒を完成して行く。
寧ろ子供の幼時は母性の手引きにすべてがあると云ってもよい。
さすれば松陰先生という殉國大偉人の裏面に母瀧子の感化薫育(くんいく)の内的補助の力を忘れてはならない。
厳に打ち込む父の精神を母の慈愛で和(なごや)かに植ゑ付けて行く。
その母親の苦心こころづかひは並大抵のことではあるまい。
殊に愛に對する感受性の強い子供の精神には、寧ろかうした母親の内的側面力の方が、より以上の根強き感化を與へるものである。
あの日本精神の権化(ごんげ)、殉国殉道殉義の吉田松陰先生を作り上げたことに就いて、日本婦人の典型たる母の瀧子の存在を決して忘れてはならないのである。
實際瀧子は父のかうした指導感化を裏から助成して行った世にも稀なる賢母である。