教科書に載らない歴史上の人物 12 栗林 忠道

長崎市五島町の羅針塾 学習教室・幼児教室では、辞書と同じ様に地図帳を普段から使いこなすことを必須としています。

例えば、「硫黄島」という漢字表記の島は、読み方により位置と歴史的な意味合いが違います。

「いおうじま」は鹿児島県の薩南諸島北部の島です。かつて俊寛が流刑された鬼界ヶ島はこの硫黄島とされ、俊寛ゆかりの史跡も多数見られます。

「いおうとう」は東京の中心部から南方約1,200kmに位置し、東京都小笠原村に属しますが、民間人は居住することができません。

今日のブログのテーマは、「硫黄島(いおうとう)」にまつわる、教科書に載らない歴史上の人物の再掲(加筆)です。

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平成17年(2005年)に硫黄島における栗林 忠道に焦点をあてた梯久美子の著書『散るぞ悲しき』が刊行され大きな話題を呼びました。
筆者も感動しながらこの本を読みました。当時栗林 忠道はイラスト付の手紙を子供たちに送り、残されている資料を見ると、分かりやすく慈愛ある文面は涙を誘います。

翌平成18年(2006年)、クリント・イーストウッド監督の映画『硫黄島からの手紙』が公開され(栗林役を渡辺謙が演じた)、関連書籍の刊行が相次ぐなどして一躍その名が知られることになりました。

現在の教科書ではまず取り上げられないエピソードを、産經新聞の「元気の出る歴史人物講座」(平成21.4.15 )から。

栗林忠道 卓越した統率力と人間性 

 アメリカ人にとっての至高の聖地アーリントン国立墓地には25メートルもの彫像「硫黄島記念碑」が立っている。
日米戦で米軍の損害が日本軍を上回った唯一の戦闘が硫黄島(いおうとう)の戦いであり、それはアメリカ人の遺伝子に刻み込まれた永久に忘れがたい激戦であった。
 米国民はこの戦いの名を口にしたとき「強い感動と愛国心ゆえの興奮に満たされる」という。
いかなる国にもそのような歴史があり、それを子々孫々に語り継ぐのである。

 アメリカ人は米軍に甚大な損害を与えた硫黄島指揮官、栗林忠道大将を、
「アメリカを最も苦しめ、それゆえアメリカから最も尊敬された男」
と評した。
自国のために命を捧(ささ)げて戦った強敵を彼らは畏敬(いけい)しているのである。

 栗林は米軍が3、4日で占領するつもりでいた硫黄島を36日間守り抜いた。
雲泥の差の過小な戦力であったが米軍をして「勝利なき死闘」と嘆ぜしめた戦いをした。

 それを可能にしたのが、「予(よ)(私)は常に諸子の先頭に在り」との精神で部下と苦楽をともにした栗林の卓越した統率力と人間性だった。
 「日本国民は諸君の勲功をたたえ、諸君の霊に涙して黙祷(もくとう)を捧げる日がいつか来るであろう。安んで諸君は国に殉ずべし」
 栗林の最後の訓示である。栗林大将はじめ2万余将兵の死戦死闘がアメリカに深い打撃を与え、日本を亡国から救ったのである。

硫黄島の栗林中将

なお、写真データは栗林中将のお孫さんである新藤義孝衆議院議員のサイトから引用しました。
http://www.shindo.gr.jp/related/kuribayashi/kuribayashi-image

栗林忠道とは 

栗林忠道
明治24年(1891)~昭和20年(1945)3月26日。
陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。位階勲等は従四位勲一等(旭日大綬章)。
長野県埴科郡西条村(現:長野市松代町)出身。
大東亜戦争末期の硫黄島の戦いにおける、日本軍守備隊の最高指揮官(小笠原兵団長。小笠原方面陸海軍最高指揮官)。

軍人であると同時に良き家庭人でもあり、北米駐在時代や硫黄島着任以降には、まめに家族に手紙を書き送っている。
アメリカ合衆国から書かれたものは、最初の子どもである長男・太郎が幼かったため、栗林直筆のイラストを入れた絵手紙になっている。

長男 太郎へ宛てた絵手紙

栗林中将への米国の評価
アメリカ合衆国においては、硫黄島の戦いの報道がリアルタイムでなされていたこともあり、この戦闘の状況と栗林の知名度は高い。
特に戦後、軍事史研究家やアメリカ軍軍人に対し、「太平洋戦争における日本軍人で優秀な指揮官は誰であるか」と質問した際「栗林将軍(英: General Kuribayashi)」と、栗林忠道の名前を挙げる人物が多い。
戦闘自体は敗北に終わったものの、僅か22km²(東京都北区程度の面積)に過ぎない硫黄島を、日本軍の3倍以上の兵力、および絶対的な制海権・制空権を持ち、予備兵力・物量・兵站・装備全てにおいて、圧倒的に優勢であったアメリカ軍の攻撃に対し、最後まで将兵や兵士の士気を低下させずに、アメリカ軍の予想を上回る1ヶ月半も硫黄島を防衛した指揮力は、アメリカ合衆国では高く評価されている。
従来、日本軍の島嶼防衛における「水際作戦」という方針を退け、長大かつ堅牢な地下陣地を構築したうえで、不用意なバンザイ突撃による玉砕を厳禁し、部下に徹底抗戦を指示した。
その結果、アメリカ軍の死傷者総数が、日本軍守備隊のそれを上回るという成果を上げ、またM4 シャーマン中戦車やLVT等を多数撃破・擱坐させるといった「物的損害を与えること」にも成功し、のちにアメリカ軍元帥をして「勝者なき戦い」と評価せしめた。(引用;Wikipedia)

特に心を打つものは、昭和20年(1945)16日16時の「訣別の電文」です。

訣別の電文

  戦局最後ノ関頭ニ直面セリ 敵来攻以来 麾下将兵ノ敢闘ハ真ニ鬼神ヲ哭シムルモノアリ 
特ニ想像ヲ越エタル量的優勢ヲ以テスル陸海空ヨリノ攻撃ニ対シ 宛然徒手空拳ヲ以テ 克ク健闘ヲ続ケタルハ 小職自ラ聊(いささ)カ悦ビトスル所ナリ

  然レドモ 飽クナキ敵ノ猛攻ニ相次デ斃レ 為ニ御期待ニ反シ 此ノ要地ヲ敵手ニ委ヌル外ナキニ至リシハ 小職ノ誠ニ恐懼ニ堪ヘザル所ニシテ 幾重ニモ御詫申上グ 

今ヤ弾丸尽キ水涸レ 全員反撃シ 最後ノ敢闘ヲ行ハントスルニ方(あた)リ 熟々(つらつら)皇恩ヲ思ヒ 粉骨砕身モ亦悔イズ 

特ニ本島ヲ奪還セザル限リ 皇土永遠ニ安カラザルニ思ヒ至リ 縦ヒ魂魄トナルモ 誓ツテ皇軍ノ捲土重来ノ魁タランコトヲ期ス 

茲(ここ)ニ最後ノ関頭ニ立チ 重ネテ衷情ヲ披瀝スルト共ニ 只管(ひたすら)皇国ノ必勝ト安泰トヲ祈念シツツ 永ヘニ御別レ申シ上グ

  尚父島母島等ニ就テハ 同地麾下将兵 如何ナル敵ノ攻撃ヲモ 断固破摧シ得ルヲ確信スルモ 何卒宜シク申上グ

終リニ左記〔注:原文は縦書き〕駄作御笑覧ニ供ス 何卒玉斧ヲ乞フ

 国の為 重き努を 果し得で 矢弾尽き果て 散るぞ悲しき

 仇討たで 野辺には朽ちじ 吾は又 七度生れて 矛を執らむぞ

 醜草(しこぐさ)の 島に蔓る 其の時の 皇国の行手 一途に思ふ

尚、16日16時の「訣別の電文」の翌17日、大本営よりその功績を認められ、特旨により陸軍大将へ昇進。
平時とは異なる戦時昇進ではあるが、53歳という年齢は日本陸海軍中最年少の大将です。

・・・尖閣諸島や竹島の問題等、日本の舵取りをする首相以下、先人の強い念いを真摯に受け止めて政(まつりごと)を行わなければ、子供や孫の代のみならず、後世に大きな禍根を残すことになります。
本当の歴史をしっかり学ぶことが如何に肝要であるか、ということです。

posted by at 17:33  |  塾長ブログ

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