幼児教育に於いて「多芸は無芸」に通じる、と喝破された石井勲先生。→「漢字は学問の基礎である」(https://rashinjyuku.com/wp/post-1615/)
筆者も常日頃考えていることをズバリ指摘されています。つまり、「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」的な考えで、様々な幼児教育を子供に同時並行的に受けさせることの愚、についてです。成人で体力も忍耐力もある人ならばともかく、幼い子供さんは体力も忍耐力もこれからつけていこうという時期です。植物に例えると、やっと双葉が開き、根も浅くしか土に伸ばしていない段階。1週間のほとんどを習い事に通っているという幼児さんもいます。これでは、風に晒される双葉のように、体力も気力も萎えてしまいます。
石井勲先生著作「0歳から始める脳内開発ー石井式漢字教育」の「プロローグ 「まえがき」にかえて」に、「漢字を教えてはいけない」という項目があります。カール・ヴィッテの教育法に通じる強い信念を持つことの大事さを教えてくれます。引用してご紹介します。
漢字を教えてはいけない
子どもに漢字教育をするというと、つい勘違いしがちなことは、「漢字 で教える」ということと「漢字を教える」ということがまったく別なのだとい うことに気づかないで、あくまでも教え込んでしまっているということで す。
私は「漢字で」と「漢字を」ということを厳密に区別しているのですが、 漢字教育というと、どうしても「漢字を」教えてしまうケースが多いのです。 しかも、悪いことに、子どもがどれくらいわかったかを“書かせる”ことに よってチェックしてしまいがちなのです。
しかし、漢字を覚えさせることが目的となったり、書かせたりすること はまったく無意味です。鉛筆もまだろくに持てない幼児に「旗」などとい う字を書かせることには無理があります。無理なことは苦痛になります から、結局、身につかないのです。それどころか、無理に漢字を教える から漢字嫌いになってしまうのです。
私が提唱している石井式漢字教育では、次の三つを基本理念として います。
一、漢字を教えてはいけない
一、漢字をどれだけ覚えたか、テストをしてはいけない
一、漢字を書かせてはいけない
漢字教育をする場合、子どもに漢字を書かせる必要はまったくありません。ないどころか、漢字を書く能力は幼児の才能開発にとって何のプラスにもなりません。小学校に入ってからでも、漢字を書き取る能力 はほとんど必要ないのです。
極端なことを言うようですが、小学校に入って、もし書き取りの試験で 悪い点を取ってきても、叱る必要はまったくありません。むろん、わざわ ざ漢字で零点をとってきた子どもの頭をなでてやる必要はありませんが、 叱ったり、復習させる必要はないということです。
漢字のテストでいい点を取ることと、子どもの脳を活性化させることと は少しも関係ありません。漢字は読めさえすればいいのです。漢字が 読めるようになると、親が放っておいても本を読むようになります。そう すると、幼児の脳は活発に動き始めるのです。
現に、私は息子が小学生になって書き取りの宿題を出されて帰って きても、息子には一切やらせませんでした。書き取りをやって、それが できるようになったからといって頭がよくなるはずがないと確信していた からです。
一時間も二時間もかけて漢字の書き取りをさせるくらいなら、本を読 ませたほうがはるかにいいのです。今だから言えることですが、息子の 代わりに、私が宿題の書き取りをしたこともあるほどです。わざと子ども の字を真似てヘタに書いてやったものです。そこまでしなくても……と 思われるかもしれませんが、それほど、子どもにとって漢字を書かせる ことは無意味だと考えていたからです。
・・・カール・ヴィッテの父が「我々は子供を社会に送り出すにあたって、出来るだけハンディキャップを少なくしてやる義務がある」との信念で、叡智の限りを尽くし子供を教育したことに通じるものがあります。https://rashinjyuku.com/wp/post-951/
一般的に、日本人は自分だけが突出して物事を行うということはありません。農事暦に基づき、段取りを考えていく米作農民の様に、季節ごとに為すべきことを為すことで収穫ができる歴史を重ねてきていることも背景にあるのでしょうか。基本的に周囲の人と横並びにすることで摩擦を回避する傾向が強い。子供さんの教育も然り。
自分の信念で、子供の教育を計画的に行うというよりも、Aさんは何々、Bさんはこれこれ、という情報を入れつつ、我が子の教育を考える、というのが普通の様です。つまり、他人さんの例(成功例、失敗例)を横目に見つつ、試行錯誤して行く。
子供の教育は、必要不可欠なことを徹底して学ばせるということに尽きる様です。