現在の通知表には学業成績だけでなく、授業態度や学校生活の態度も記されています。
児童・生徒の学校生活における全人格の一端を家庭に知らせる役目があります。
長崎市五島町の羅針塾 学習塾・幼児教室では、学業成績の評価も確認しますが、寧ろ授業態度や学校生活の態度を重視しています。
何故ならば、心の持ち方の有り様が「態度」に表れているからです。
つまり、将来の「伸び代」(能力を出し切ってはいない場合の、これから先の成長、発展する見込みや余地があること)を確認できると考えています。
さて、教科書に載らない歴史上の人物、長崎県人の巻です(再掲・加筆)。
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一、性質温厚
二、志操堅固
三、品行方正
四、動作沈着
五、言語明晰
このような性行表(人の性質と行動を評価した)は、現在の学校ではお目にかかることはありません。
長崎県が生んだ素晴らしい武人のご紹介です。
旧制長崎県立島原中学校(現・長崎県立島原高等学校)出身の村田 重治(むらた しげはる)は、明治42年生まれの大日本帝国海軍軍人。
南太平洋海戦で米空母「ホーネット」攻撃後に戦死。二階級特進により最終階級は海軍大佐。
雷撃(注)の神様として有名です。
注:雷撃(らいげき)とは、軍艦・航空機などが、魚雷を敵の艦船に向けて放つこと。雷撃を専門に行う軍用機は雷撃機と呼ばれる。
その村田は、優等生であり、且つ、当時の長崎県立島原中学校卒業時の性行表が上述のものです。
幼少時代は、成績は小学校、中学校ともに優秀だが、控えめで口数も少なくどちらかと言うと目立たなかった。
どんな時でも笑顔でユーモラスを絶やさず、常に張り詰めた場をもそのくだけたジョークで華やかにし、部下はもとより同期や上官、指揮官までも「ブーツ」とあだ名され信頼された。
しかし、一人のときは寡黙で家族と談笑するよりも一人で愛用の電気蓄音機から流れるポピュラー音楽(特にボレロ)に耳を傾けるほうを好んだ。
その神がかりな雷撃操縦から「雷撃の神様」とも呼ばれるようになった。
真珠湾攻撃
そして海軍は、この雷撃屋の腕と人柄を高く評価しており彼を当時超極秘であった真珠湾攻撃スタッフとして真珠湾に向けての雷撃法を一任する。
そして、期待にみごと応え、浅沈度板を取り付けた真珠湾用の魚雷と高度5メートルという超低空飛行を村田は完成させる。
昭和16年(1941年)12月8日、真珠湾には特第一攻撃隊(雷撃隊40機)の指揮官として出撃。
村田の雷撃隊は「ウエスト・ヴァージニア」、「オクラホマ」などを攻撃している。
昭和17年(1942年)6月5日 、ミッドウェイ海戦では発艦準備中の所を米軍に襲撃され、愛する母艦赤城を失い駆逐艦に救助される。
昭和17年7月14日にはすぐに空母翔鶴の飛行隊長として出撃、ガダルカナルにおける陸軍第17軍の総攻撃を支援するためにソロモン海へ向かう。
南太平洋海戦で南雲中将率いる第3艦隊は、黎明より探索を開始した結果午前4時50分に米空母部隊を発見。
村田率いる第1次攻撃隊(零戦21機、九九艦爆21機、九七艦攻20機)は、米空母ホーネットを沈没。
エンタープライズを大破、駆逐艦ポーター沈没、航空機74機喪失という戦果を挙げた。
しかし、ホーネットに魚雷的中後、敵の機関砲により被弾した村田機は、部下に別れの手を上げ、そのままホーネットの艦橋めがけて体当たり。
ブーツと全ての者から親しまれた片意地張らない雷撃の神様は34歳の生涯を断つ。死後二階級特進し大佐。
彼は常に悠々として
「大言壮語せず」
「上官におもねらず」
「部下を軽視せず」
信頼と敬愛を一身に集めた人格者であった。
昭和17(1942)年10月26日没。享年34歳
因みに、地元の英雄を顕彰する意味で書かれた書物があります。
雷撃王村田重治の生涯―真珠湾攻撃の若き雷撃隊隊長の海軍魂 (光人社NF文庫) 山本 悌一朗 (著)
山本/悌一朗氏
昭和4年8月17日、島原市湊に生まれる。島原中学校2年生のとき、村田重治大佐の戦死を知り、以来、村田大佐に関する資料、証言を渉猟。
「日本海軍には、勇猛果敢な“海軍魂”というものがあり、それぞれの人がそれぞれの持場でこれを発揮した。村田重治大佐は、典型的な飛行機乗りとして“海軍魂”を極限にまで発揮した人物だった。といっても、彼はつねに悠々として、大言壮語せず、上官におもねらず、部下を軽視せず、信頼と敬愛を一身に集めた」