教科書に載らない歴史上の人物 25 橋本 景岳2

前ブログの教科書に載らない歴史上の人物 25 橋本 景岳1に記載している「啓發録(けいはつろく)」について、分かり易い解説がありましたのでご紹介します。wikipediahttps://ja.wikipedia.org/wiki/橋本左内からの引用です。

橋本景岳は、

7歳で漢籍・詩文と書道を、8歳で漢学を学び、生涯を通じて学問武道に励んだ。左内が15歳の時に著した『啓発録』に、後年、序文を記した矢嶋皞(やじまこう)によれば、当時の橋本左内は、学友が激論しているときも常にうつむいて行儀よく座り、皆の話を黙って聞いているような少年で、自分の学才を表に出さず、沈思黙考しているような人物だった。『啓発録』は、左内がそれまでの生き方を省み、その後の生き方の指針として5項目を定め、著したものとされる。

●  去稚心(稚心を去る。) :  目先の遊びなどの楽しいことや怠惰な心や親への甘えは、学問の上達を妨げ、武士としての気概をもてないので、捨て去るべき。

● 振気(気を振う。) :  人に負けまいと思う心、恥を知り悔しいと思う心を常に持ち、たえず緊張を緩めることなく努力する。

● 立志(志を立てる。) :  自分の心の赴くところを定め、一度こうと決めたらその決心を失わないように努力する。

● 勉学(学に勉む。) :  すぐれた人物の素行を見倣い、自らも実行する。また、学問では何事も強い意志を保ち努力を続けることが必要だが、自らの才能を鼻にかけたり、富や権力に心を奪われることのないよう、自らも用心し慎むとともに、それを指摘してくれる良い友人を選ぶよう心掛ける。

● 択交友(交友を択ぶ。) :  同郷、学友、同年代の友人は大切にしなければいけないが、友人には「損友」と「益友」があるので、その見極めが大切で、もし益友といえる人がいたら、自分の方から交際を求めて兄弟のように付き合うのがよい。

 

・・・更に、「益友」の目安について

 

  • 厳格で意思が強く、正しい人であるか。
  • 温和で人情に篤く、誠実な人であるか
  • 勇気があり、果断な人であるか。
  • 才知が冴えわたっているか。
  • 細かいことに拘らず、度量が広い人であるか。

 

・・・と、述べています。友人選びについて「朱に交われば赤くなる」と筆者も母親から常々戒められていましたから、此の「益友」の目安は共感を覚えます。また、逆の立場からすると、自らが友人に対し、此の目安に足り得るか、と自問しなければなりません。

 

さて、教科書に載らない歴史上の人物 25 橋本 景岳1からの続きです。「少年日本史」(平泉澄著 皇學館大学出版部)p.607からの引用です。

然るに時勢の切迫は、景岳の明道館に専念するを許さず、翌安政四年の八月には、藩主松平慶永(まつだいらよしなが)の内命を奉じて、國家の重大事、卽(すなわ)ち、開國か攘夷かの問題と、將軍の後嗣(あとつぎ)、卽ち慶喜(よしのぶ)か、家茂(いえもち)かの選擇(せんたく)、此の重大事の爲に、朝廷、幕府、諸藩の間に奔走することになりました。その奔走一箇年の後、安政五年七月、藩主慶永は隠居謹慎(いんきょきんしん)を命ぜられ、ついで景岳も取調べを受けて閉居謹慎していましたが、翌年十月、傳馬(てんま)町の獄に下され、十月七日死刑に處せられました。二十六歳でした。

 

・・・中学や高校の教科書には、「安政の大獄」の説明の部分に橋下左内の名が記載されているぐらいで、その為人(人となり:生まれつきの性質、天性、本性)や事績(じせき:ある人が成し遂げた仕事、業績、功績)は全く取り上げられていません。

そもそも日本の歴史教育や地理、公民(政治・経済)などの社会科目は、全く学ぶものの興味や学習意欲を喚起させない様な教科書を文科省が検定済みとしている事が、多くの社会嫌いの児童・生徒を生み出しています。世の子育て世代のお母さん方に、学生時代の社会科目の授業について尋ねますと、一様に「詰まらない」「授業が眠くて苦痛だった」と云う意見が返ってきます。

それに比して、

平泉澄先生の「少年日本史」は、初版が昭和四十五年(1970年)ですから、当時の小中学生にも分かりやすい様に、漢字に読み仮名を添えていますが、旧漢字を用い、内容は高尚(こうしょう:知性や品性の程度が高い事、立派な事)です。

従って、景岳の國事に奔走しましたのは、二十四歳の秋から、二十五歳までの秋までの一年間であり、その身分を云えば、越前藩主の秘書官に過ぎないのでありますが、その視野の廣(ひろ)く、識見の高く、立案の雄大にして獨創(どくそう)的なる點(てん)、更にその態度の慎重にして禮節(れいせつ)にかない、接する人々を感激心腹(かんげきしんぷく)せしめたる點、どの點を見ましても當時の第一流であり、いや當時とのみ云わず、前後幾百年の間に比類を見ないのであります。

先ずその学問を見ますと、和漢洋の三つを兼ねて、その精粹(せいすい:清く混じり気のないこと)を採っています。吉田東篁(とうこう)に就(つ)いて山﨑闇斎(やまざきあんさい)の學問に根柢(こんてい:物事や考え方を成り立たせる土台となっているもの。基礎、根本)を養い、本居宣長を慕って櫻花晴暉樓(おうかせいきろう)と號(ごう:呼び名)し、藤田東湖(ふじたとうこ)を通じて水戸學に觸(ふ)れ、經國(けいこく:国を治めること)の識見を高めました。更に大阪の緒方、江戸の杉田と云う蘭學の大家(たいか)に従ってオランダ語を學び、直接にオランダの原本に就いて、西洋の文明を理解し、世界の大勢を知りました。そして人々が、世界の地理を知らず、西洋の歴史を知らず、列強の武力を察せず、その侵略の意圖(いと)を知らず、徒らに今日の泰平を謳歌している事を歎きました。

ポルトガルが東洋に進出して、マカオ(Macao)を占領したのは、今より四百年前のことでありますが、此の先例に鑑(かんが)みて、國家の防備を強化しなければならぬと説いたのは、景岳でありました。卽(すなわ)ち安政年間、人々は中秋の月見に興じ、酒を飲んで楽しんでいるのを見て、

「他が知らむ、一片(いっぺん)晴暉(せいき*)の影、嘗(かっ)て澳門(マカオ)の白骨を照らし來るを、」

と歌って、西洋人進出の犠牲となって殺された人々を悲しんだのでした。

清輝(せいき:清らかな光)

・・・続く。

 

 

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