日本の歴史の中でも、江戸幕末から明治維新にかけては約百五十年ほど前の話ですから、現在の私達からすると3〜4世代前の曽祖父かその前の世代の話です。しかしながら、遠い昔のように感じられるのは、その頃の日本人の精神の強さと比し、現在の私達の精神の相対的なひ弱さ故なのでしょうか。
さて、教科書に載らない歴史上の人物 25 橋本 景岳3https://rashinjyuku.com/wp/post-category/schoolmaster/からの続きです。「少年日本史」(平泉澄著 皇學館大学出版部)p.611からの引用です。
何故に井伊大老がこれを死刑にしたかと云えば、井伊は徳川幕府従来の體制(たいせい)を頑固に維持して行こうと考え、家康以来、天下の政治は、朝廷より御委任を受けて、幕府の専決する所であって、國を鎖すか開くかも、將軍の後嗣ぎに誰を選ぶかも、全て幕府の権限に属し、今更朝廷の思召(おぼしめし)をうかがう必要もなければ諸藩の意志を聞こうとは思わない、そして幕府に於いて之を判断する者は、御三家御三卿(ごさんけ・ごさんきょう)でも無ければ、親藩でも無く、將軍の高級幕僚たる溜(たまり)の間詰(まづめ)の譜代大名のうち、選ばれて大老たり、老中たる者に限る、もともと井伊はその高級幕僚の筆頭であり、そして今や大老として將軍代行の地位に在る、井伊を差措(さしお)いて、國家の重大時に嘴(くちばし)をさしはさむ者は、朝廷の重臣であろうとも、御三家であろうとも、その僭越(せんえつ)は咎(とが)められねばならぬ、まして陪臣(ばいしん:江戸時代直臣(じきしん)の旗本・御家人に対し諸大名の家臣)たる者が越権にも何をいうのだ。
かような考(かんがえ)によって、橋本景岳は斬られたのでありました。
勘定奉行(かんじょうぶぎょう)水野筑後守(みずのちくごのかみ)は之を見て、「井伊大老が橋本左内を殺したるの一事、以て徳川氏を亡ぼすに足れり」と云いました。
人は、それぞれ其の行為の責任を取らなければならないのです。伊井は、また幕府は、やがてその責任を取るでしょう。然しその前に、今一人の惜しむべき犠牲者、吉田松陰に就いて語らねばなりません。
・・・ブログの文章にしては、つい長くなってしまう所以(ゆえん:謂れ、理由)が、この平泉澄先生の名調子にあります。
中・高校の教科書にもこのような名調子、博識を披露してもらうようなものがあれば、誰一人授業中に眠るものがいない筈です。