武漢発のコロナ・ウィルスの日本国内感染者が徐々に増えつつある中で、クルーズ船内や密室空間での感染の恐怖を味わうのは、底知れぬものがあることと思います。
同様に、日本の歴史の中で疾病の原因が分からず、治療法が無いと思われていた国民病・脚気についても克服するまでには多くのドラマがあります。
再々参照させていただいている「国際派日本人」養成講座 「軍医・高木兼寛 海軍を救う」(http://blog.jognet.jp/202002/article_4.html)と、「宮崎県郷土先覚者 高木兼寛」(https://www.pref.miyazaki.lg.jp/contents/org/kenmin/kokusai/senkaku/pioneer/takaki/index.html)からの引用です。
高木兼寛(かねひろ)はペリー来航を直前に控えた江戸末期、薩摩藩領の日向国穆佐村白土坂(むかさむらしらすざか/現・宮崎市高岡町穆佐)に生まれました。
武士の子として、幼少期から学問や剣術を学ぶ一方で、父・喜助の手伝いで大工仕事にも精を出します。当時の薩摩郷士は、武士としての俸禄だけではなく、耕作や大工仕事などの副業で生計を立てるのが一般的でした。
その後兼寛は地元で敬愛されていた医師の黒木了輔にあこがれを抱き、医学の道を志します。17歳になると鹿児島に出て、石神良策に医学を学びます。2年後の1868(明治元)年には戊辰戦争が始まり、兼寛も薩摩藩九番隊付として上京します。
当時の藩医たちは、戦闘による傷の手当てに不慣れであったため、西郷隆盛が英国領事館の医師、ウィリアム・ウィリスに依頼し、負傷者の治療にあたらせます。ウィリスは麻酔を使った手術や消毒処置によって、多くの兵士を救います。この光景は、若い兼寛に大きな刺激となったことでしょう。
会津戦争後に帰郷した兼寛は、鹿児島医学校に赴任してきたウィリスと再会し、改めて英語と医学を学びます。その後、海軍省出仕を経て3年後の1875(明治8)年、ロンドンのセント・トーマス病院医学校に留学します。
同医学校ではさまざまな医科学を学ぶと同時に、ナイチンゲール看護婦学校を見聞するなど、英国医学の特徴であった「臨床医学」や「看護婦養成」などを身につけます。兼寛が残した言葉「病気を診ずして病人を診よ」の精神も、この時期に身についたのかもしれません。
同校を首席で卒業した兼寛は、帰国後すぐに東京海軍病院長に任ぜられます。
日本海軍に衝撃を与えた脚気患者の大量発生
明治15(1882)年の京城事変では、朝鮮宮廷のクーデーターで日本大使館も襲われ、政府は邦人保護のために軍艦5隻を仁川沖に派遣しました。それに対抗して清国も戦艦3隻を派遣して、睨(にら)み合いとなりました。
この時、日本の五隻の軍艦内では多数の脚気(かっけ)患者が発生し、死亡する者もいました。もしも清国軍艦と交戦状態となったら、日本の各艦には戦闘に応じる人員はわずかで、たちまち危機に瀕することはあきらかでした。日本側はこのような事態を清国側に気付かれないよう、元気な水兵を集めて艦上でしきりに訓練させました。
脚気は心不全により、足のむくみ、しびれが起き、最悪の場合は心臓発作を起こして死亡に至ります。江戸時代の元禄年間には江戸で大流行をしたため「江戸わずらい」と呼ばれ、激しい脚気が流行した京都では、短期間に死ぬので「三日坊」とも言われました。欧米にはない病気で、明治9(1876)年に来日して東京帝国大学医学部で教えていたドイツ人医師ベルツは黴菌による伝染病と考えていました。
明治天皇は皇后とともに軽い脚気に罹(かか)られた事があり、内親王のお一人を脚気で亡くされている事から、脚気専門病院の設立をしてはどうか、と政府に伝え、破格の金額を下賜されていました。政府も予算を投じ、明治12(1879)年に脚気病院が設立されましたが、有効な治療法が見いだせませんでした。
海軍病院の軍医・高木兼寛(かねひろ)は、毎日、脚気患者に接していたことから、なんとしてもこれらの患者を救わねばならないと、自らこの大問題に取り組むこととしました。
改めて記録を調べてみると、明治11(1878)年には海軍の総兵員数4,528名のうち、脚気患者は1,485名、32.8%にも上っていました。これではいくら最新鋭の軍艦を揃えても戦えません。京城事変での危機的状況は、今に始まったことではなかったのです。
国民病・脚気との闘い
海軍軍医大監に任ぜられると、脚気についての調査に乗り出します。兼寛はその原因として、患者のいない英国海軍ではパンや肉など、たんぱく質の多い食事を摂っていたのと比較して、白米中心の日本食がその原因ではないかと考えたのです。
脚気とは末梢神経に障害を与え、下肢のしびれやマヒを引き起こし、ひどくなると死亡することもある病気です。富国強兵策を唱える明治政府にとって脚気は、兵力安定のための懸案事項のひとつとなっていました。
ちょうどその頃、太平洋横断の練習航海中の軍艦「龍驤」で、376名の乗組員中、169名の重症脚気患者(25名死亡)を発生させ、ハワイのホノルルにたどりつくという事件が発生しました。
龍驤はハワイ停泊中の食事を、米食から肉・野菜に変更したところ患者は快方に向かい、帰国することができました。このことは兼寛の仮説を補強する出来事でした。
脚気栄養説を確信した兼寛は、兵食改善を明治天皇に奏上。練習艦「筑波」に改善食(洋食)を搭載し、龍驤と同じコースをたどらせます。その結果、肉やミルクを嫌った者以外に患者なしという結果が出ました。その後海軍食は、主食をパンから日本人にも食べやすい麦飯に変え、脚気患者が激減します。
一方、ドイツの「研究室医学」が主流の東京大学と陸軍では、衛生学教授の緒方正規が「脚気病菌」の発見を報告したり、ドイツ留学中の軍医・森林太郎(のちの鴎外)が「日本兵食論大意」を著すなど、兼寛の栄養説を批判します。
海軍の栄養説と陸軍の伝染病説とは、長年に渡って論争を繰り広げますが、その結果として、日清戦争での陸軍の脚気患者は34,783名(死亡者3,944名)、日露戦争では実に211,600名の患者が発生し、27,800名もの兵が亡くなりました。一方海軍では、合計で患者約40名、死者は1名と決定的な差が生じます。
このような事実にも関わらず陸軍では、伝染病説を捨てませんでした。
しかしフンクによるビタミンの発見、マッカラムによる脚気予防因子ビタミンBの発見により、栄養説が実証されることになるのです。
・・・当時の日本の陸軍と海軍、医学会を二分する論争は夙(つと)に有名です。
細菌説の中心にあって白米供給にこだわっていた森林太郎(鴎外)は、日露戦争後、陸軍軍医総監、陸軍省医務局長と軍医のトップに登りつめました。しかし、同様のキャリアを積んだ人々が男爵、子爵に補せられているのに、森にはついにその声があがりませんでした。
一方、高木兼寛は、東京帝国大学と陸軍からの厳しい敵視を浴びつつも、明治天皇が自分を認めてくれているという事を心の支えに、屈辱に耐えました。そして生前に男爵に補せられ、大正9(1920)年の逝去の日には従二位に叙されました。
彼の業績は欧米では遙かに高い評価を与えられました。コロンビア大学やフィラデルフィア医科大学から名誉学位を送られました。ビタミン発見の歴史において、高木兼寛は先駆的な業績をあげた研究者として顕彰されています。
日清・日露戦争と多くの脚気による死者を出しながらも、保身のために細菌説にこだわった陸軍中枢部に対し、ひたすら兵員の命を救うために、自らの命をも掛けた航海実験を敢行した兼寛に、歴史は最後には正当な評価を与えたのです。
因みに、高木兼寛は医師としての功績のみならず、語学は無論、軍人(海軍軍医総監)、経済人(帝国生命保険会社創設)、経営者(病院や医学校の経営)、教育者(成医会講習所など)、政治家(貴族院議員など)、開拓者(北海道夕張郡開拓事業)、芸術家(書跡の達人)、宗教家などさまざまな顔を持つ、多芸多彩の人であったのです。