教科書に載らない歴史上の人物 27 ジャヤワルダナ大統領 2

さて、日本が大東亜戦争(世界の視点では第二次世界大戦)後に、独立を果たし国際社会に復帰するきっかけとなったスリランカのジャヤワルダナ代表のお話の続きです。

 

「講和条約アジア隷従人民が日本に対して抱いていた高い尊厳のため」

講和条約への賛成を表明した後、ジャヤワルダナ代表はその 理由を述べた。  

アジアの諸国民が日本は自由でなければならないという ことに関心をもっているのは何故でありましょうか。それ は日本とわれわれの長年の関係のためであり、そしてまた、 アジアの諸国民の中で日本だけが強力で自由であり日本を 保護者にして盟友として見上げていた時に、アジア隷従人 民が日本に対して抱いていた高い尊敬のためであります。

 私は、アジアに対する共栄のスローガンが隷従人民に魅 力のあったこと、そしてビルマ、インド及びインドネシア の指導者のあるものがかくすることにより彼等の愛する国 々が解放されるかも知れないという希望によって日本人と 同調したという前大戦中に起こった出来事を思い出すこと ができるのであります。

「共栄のスローガン」とは、日本が大戦中に唱えた「大東亜共 栄圏」のことであり、実際に欧米諸国の植民地支配からの独立 を目指す国々の代表が東京に集まって、「大東亜会議」が開催 されている。  

さらにビルマ、インド、インドネシアでは、日本が支援して 設立された独立軍が、これらの国々の独立戦争に大きな役割を 果たした。  

ジャヤワルダナ代表は、日本に対する賠償請求権を放棄する、 と続け、その理由として、仏陀の「憎悪は憎悪によって消え去 るものではなく、ただ愛によってのみ消え去るものである」を 引いた。

『サンフランシスコ・エグザミナー』 紙は「褐色のハンサムな外交官が、セイロン島よりやって来て、 世に忘れ去られようとしていた国家間の礼節と寛容を声高く説 き、鋭い理論でソ連の策略を打ち破った」と評した。  この後、ソ連、ポーランド、チェコスロバキアを除く49カ 国が講和条約に署名し、翌年4月28日、日本はついに独立を 回復したのだった。

・・・当時の日本国民からすると、アジアの国とはいえ遠く離れたスリランカの外交官が何故日本を擁護するのだろうかと思ったことでしょう。

それはスリランカの歴史を紐解くと、その理由の一端が分かります。

  スリランカとは「光り輝く島」という意味で、その美しい豊 かな自然から「インド洋の真珠」とも呼ばれてきた。北海道の 8割ほどの国土に、現在では2千万人の人々が住んでいる。  

紀元前5世紀に北インドから移住したシンハラ人が王国を作 り、紀元前3世紀に仏教が伝わると、それ以降、現在まで仏教 国として信仰を守ってきた。  

しかし、スリランカはインド洋交易の重要拠点であり、その ため、早くから西洋諸国の侵略にさらされた。1505年にポルト ガル人がやってきて、約150年間、沿岸部を支配した。1658 年からは今度はオランダが替わって約140年間、植民地支配 を続けた。さらに1796年にはイギリスが支配者となり、全島を 支配下においた。  

イギリスは、スリランカ全島を紅茶の生産基地とし、米まで 輸入しなければならない状態にしてしまった。独立を求めて大 規模な反乱が三度起きたが、いずれも武力鎮圧された。  

イギリスは南インドから移住してきた少数派のタミル人を優 遇し、彼等を教育して役人とし、多数派のシンハラ人を治めさ せた。この巧妙な分割統治が、現在も続く民族闘争の原因となっ た。  同時にキリスト教徒を優遇し、仏教を抑圧した。シンハラ人 のほとんどは仏教徒で、教育を受けることも難しかった。

・・・第二次世界大戦前の欧米列強諸国が、世界中に植民地を持ち、それらの国々の国民は過酷な植民地支配の下に置かれていたのは、今では考えられません。

イギリスの敷いた「分割統治」の爪痕は、スリランカが独立した後も「スリランカ内戦」(1983〜2009)として、スリランカ政府とタミル・イーラム解放の虎(LTTE)との間の激烈な争いが26年も続きました。

因みに、

分割統治(Devide and conquer 分断統治ともいう)」とは、ある者が統治を行うにあたり、被支配者を分割することで統治を容易にする手法。

被支配者同士を争わせ、統治者に矛先が向かうのを避けることができます。統治者が被統治者間の人種、言語、階層、宗教、イデオロギー、地理的、経済的利害などに基づく対立、抗争を助長して、後者の連帯性を弱め、自己の支配に有利な条件をつくりだすことをねらいとし、植民地経営などに利用されたものです。

19世期以降の欧米諸国の植民地経営は、この原理をよく応用しました。

イギリスはインドなどアジア諸国で、人種、宗教、地域の差異で分割した集団を互いに反目させることで長期の統治に成功しました。ミャンマーの少数民族問題長期化も英国の分割統治がビルマ族を抑圧して少数民族を優遇したことに始まります。更に、ビアフラ戦争もイギリス植民地時代の分割統治による東部のイボ族と北部のハウサ族との部族対立が最大の原因です。

またベルギーやドイツは、ルワンダ・ブルンジにおいてフツ族とツチ族に格差をもうけ、少数派のツチを中間的な支配層としました。これがルワンダ虐殺の遠因となったともいわれています。

 

「アジアを救うことこそ日本の役割」

イギリスの植民地支配のもとで衰退した仏教を再興しようと 19世紀末に立ち上がったのが、スリランカ建国の父と呼ばれ るアナガーリカ・ダルマパーラであった。  

敬虔な仏教徒の家に生まれたが、当時のキリスト教の強い影 響で、聖書にちなんだダビッドという名をつけられていた。し かし仏教再興運動を進める中で、自ら「アナガーリカ(出家者) ・ダルマパーラ(法の保護者)」と名乗ったのだった。  

ダルマパーラは仏教の縁で、明治22(1889)年2月に初めて 日本を訪れた。おりしも大日本帝国憲法発布式が行われており、 ダルマパーラは近代日本の胎動を目の当たりにした。  

ダルマパーラは明治25(1892)年に2回目、明治35(1902) 年に3回目の来日を果たした。3度目の来日の2か月前、日英 同盟が結ばれており、ダルマパーラは「欧米人のアジア人に対 する差別的偏見をなくし、植民地支配という悲劇の中にあるア ジアを救うことこそ日本の役割なのだ」と語っている。  

その2年後、日本は大国ロシアに対して戦いを挑み、これを 打ち破った。日本の勝利にスリランカの人々は熱狂した。ダル マパーラも「こんな素晴らしいことはない。皆さんは気づいて いないかも知れないが、皆さん日本人によってアジアはまさに 死の淵から生還したのだ」と語っている。

「次に生まれるときには日本に生まれたい」

3度の来日で、日本の驚異的な発展を目の当たりにしたダル マパーラは、シンハラ人の自立のためには技術教育が欠かせな いと考え、日本に留学生を派遣する財団を設立した。  

大正3(1913)年、ダルマパーラは最後の訪日を行い、帰路、 満洲と朝鮮も訪れた。日本はこれらの地に惜しみない資本投下 を行って、急速に近代化を進めていた。ダルマパーラは「日本 が2、3年の内にこの地で完成させたことを、イギリスがイン ドで行ったならば優に50年を要していただろう」と、植民地 を搾取の対象としかみないイギリスとの違いを指摘した。  

ダルマパーラの活動によって、仏教に根ざしたシンハラ人の 民族主義運動が高まっていった。イギリスの植民地当局はこれ を警戒し、おりから発生した暴動の首謀者としてインドで5年 間もダルマパーラを拘束した。弟も捕らえられ、半年後に獄死 した。それでもダルマパーラは運動をやめず、昭和8(1933)年、 69歳でスリランカ独立の日を見ることなく、生涯を終えた。 「次に生まれるときには日本に生まれたい」とよく話していた という。

 

・・・戦後70年以上も、日本は「侵略戦争」を起こし、「アジア諸国を植民地支配しようとした」などといったことが当然の様に学校現場で教え込まれてきています。

しかし、良識あるアジアの指導者達は、客観的に事実に基づき日本を評価していました。その一例がスリランカのお話です。

皇太子のお召し艦を一目見ようと胸を弾ませて港に赴いた少年

1921(大正10)年3月、日本の巡洋艦『香取』がスリランカ を訪れた。当時、皇太子であった昭和天皇をお乗せして、ヨー ロッパに向かう途上であった。 皇太子のお召し艦を一目見ようと港に集まった人々の中に、 一人の少年がいた。15歳のジャヤワルダナであった。  

ジャヤワルダナは、昭和54(1979)年、国賓として来日した 際に、宮中の歓迎晩餐会にて次のように語っている。

 外国の統治の下では、人々の信仰や言葉、慣習などはほ とんど消え去りそうになっていました。  このことから、私達だけではなく、西欧の帝国主義の下 で同じような運命によって苦しんでいる全てのアジアの国 民達は日本を称賛し、尊敬していたのです。先の80年の 間、日本はアジアにおいて独立国として立ち上がっていた のです。  西欧の列強が、その軍事力と貿易力によって世界を支配 していた時に、あなた達は彼等と競い、匹敵し、時には打 ち負かしていました。  陛下が1920年代に皇太子としてスリランカを訪れた 際には、私は気持ちを高ぶらせて陛下が乗船されている艦 を一目見ようと港に行ったものでした。  

当時の日本は、日英同盟のもと、第一次大戦をイギリスと共 に戦って勝利し、世界の強国として頭角を現しつつあった。自 分たちと同じアジア民族で、かつ共に仏教を信奉する日本の皇 太子が、自国の巡洋艦で対等の同盟国であるイギリスに赴くと いう出来事は、「自分たちもいつかは独立を」という希望をス リランカの人々に抱かせたに違いない。

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