長崎市五島町の幼児教室・学習塾の羅針塾では、日頃から漢字や熟語の語彙力を増やすことをそれぞれの塾生の課題にして日々研鑽しています。
さて、学力向上の鍵である漢字〜漢文に繋がる話が「近代医学の祖 緒方洪庵」の中にも出てきます。「国際派日本人養成講座」から「国のため、道のため」〜近代医学の祖 緒方洪庵(http://blog.jog-net.jp/202101/article_1.html)を引用してご紹介します。
3.適塾にて20数年、600人以上の塾生を育てる
洪庵は、コレラの治療法や種痘など近代西洋医学の普及による民生向上に打ち込みましたが、同時に将来の日本のための人材育成にも力を入れました。そのために創設したのが適塾(てきじゅく)です。
「適塾」とは、洪庵の号「適々斉」の塾という略称ですが、この「適々」とは、諭吉が自作の漢詩を書軸にして適塾の玄関に掛けたものから、次のように解されています。
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師洪庵の「適々」の生き方が俗世間から逃避して「悠々自適」することでなく、俗世間の中を他より束縛されず、みずからの心に適(かな)うところのものを堅持して強く生きぬくことにあるととらえた、「適塾」の精神を表した貴重な遺品であるといえよう。[梅溪1、p131]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄俗世間の中で、コレラや天然痘と戦い、また国の近代化のための人材育成に励むなど、洪庵は自ら見つけた心に適(かな)う使命に勇んで取り組んだ人でした。
洪庵は適塾を、天保9(1838)年に29歳にして長崎での修行を終え、大阪で医業を始めるとすぐに創設し、文久2(1862)年江戸での西洋学問所頭取就任まで自ら経営し、その後は養子の緒方拙斉に任せました。
直接、塾を見ていた時期だけでも二十数年。その間の塾生は600人を超え、青森と沖縄以外のすべての地方から来ています。そのほか、教えを与えた者は3千人に及んだと言われています。塾生のなかには長州出身で陸軍建設の祖と言われる大村益次郎、福井藩主・松平春嶽公の側近として活躍した橋本左内(当ブログ「橋本景岳(左内)https://rashinjyuku.com/wp/post-2290/)、慶応義塾の創立者・福澤諭吉、日本赤十字の創始者・佐野常民など、幕末から明治の日本を導いた人材が輩出しています。
・・・我が国の明治以降の近代化は、緒方洪庵の「適塾」で切磋琢磨して学んだ俊秀(しゅんしゅう:能力や才知に優れた人)によって、進められたかの如くです。江戸時代の教育レベルは、世界に比しても相当に高いと評価されているのは、全国の高名な塾(広瀬淡窓の咸宜園など)を筆頭に、様々な塾や藩校で学び、常に向上心を持つ若者達を育む土壌があったからです。
4.「国のため、道のため」
この4人を見ても、医学に関わりのあるのは佐野常民だけで、他の3人は軍事、政治、教育と分野を異にしています。洪庵は分野も勉強方法も自主性に任せて、人材育成にあたりました。福澤諭吉の後に塾頭をつとめた長与専斎*(ながよ・せんさい)はこう言っています。
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元来適塾は、医家の塾とはいえ、その実、蘭書(オランダ書)解読の研究所にて、諸生には医師に限らず、兵学家もあり、砲術家もあり、本草家(JOG注: 薬学者) も舎密家(JOG注:化学者)も、およそ当時蘭学を志す程の人はみなこの塾に入りてその仕度(したく)をなす。[梅溪1、p114]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄英国艦隊が清国を打ち破ったアヘン戦争や、アメリカの黒船艦隊来航など西洋諸国がひたひたと極東に迫っている状況で、洪庵は「当今必要な西洋学者を育てるのを自分の任務として専念している」と甥に書き送っています。[梅溪1、p111]
また弟子などにあてた手紙でも、よく「国のため、道のため」に力をつくすように、と結んでいました。「国のため」とは、「当今必要な西洋学者を育てる」という使命に通じ、「道のため」とは医学のため、という意味です。
*長与専斎ー肥前國大村藩(現長崎県大村市)に代々仕える漢方医・中庵の子。藩校五教館(現長崎県立大村高校の前身)で学んだ後、大坂適塾に入門し、福澤諭吉の後任の塾頭になる。
・・・緒方洪庵は教育者としての役割を認識し、人の伸ばし方を弁えて塾生と接していた様です。
人柄は温厚でおよそ人を怒ったことがなかったという。
福澤諭吉は「先生の平生、温厚篤実、客に接するにも門生を率いるにも諄々として応対倦まず、誠に類い稀れなる高徳の君子なり」と評している。
学習態度には厳格な姿勢で臨み、しばしば塾生を叱責した。ただし決して声を荒らげるのでなく笑顔で教え諭すやり方で、これはかえって塾生を緊張させ「先生の微笑んだ時のほうが怖い」と塾生に言わしめるほど効き目があった。
更に、
語学力も抜群で弟子から「メース」(蘭語の「meester」=先生の意味から)と呼ばれ敬愛された。
福澤諭吉は洪庵のオランダ語原書講読を聞いて
「その緻密なること、その放胆なること実に蘭学界の一大家、名実共に違わぬ大人物であると感心したことは毎度の事で、講義終り、塾に帰て朋友相互(あいたがい)に、今日の先生の彼(あ)の卓説は如何(どう)だい。何だか吾々は頓(とん)に無学無識になったようだなどゝ話した」
と評している。
原語をわかりやすく的確に翻訳したり、新しい造語を考案したりする能力に長けていたのである。洪庵はそのためには漢学の習得が不可欠と考え、息子たちにはまず漢学を学ばせた。
(ウイキペディア)
・・・「原語をわかりやすく的確に翻訳したり、新しい造語を考案したりする能力に長けていた」緒方洪庵が、「そのためには漢学の習得が不可欠と考え、息子たちにはまず漢学を学ばせた。」という件(くだり)は、然もありなん、と深く同意します。