教科書に載らない歴史上の人物 28 緒方洪庵 3

長崎市五島町の幼児教室・学習塾の羅針塾では、学年(年齢)を超えて切磋琢磨をできるだけの自律性を持たせる工夫をしております。年齢の如何を超えて、人の良い所を真似することから「学び」は始まります。

さて、

教科書に載らない歴史上の人物 28 緒方洪庵 2の続きです。

5.「ついぞまくらをして寝るなどということは、ただの一度もしたことがない」

 適塾での生活を、塾頭を務めた福澤諭吉が活き活きと書き残しています。常時、百人ほどの塾生が適塾に寄宿しており、一人一畳ほどのスペースしか与えられていません。

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 夕方食事の時分にもし酒があれば酒を飲んで、初更に寝る。一寝して目がさめるというのが、いまでいえば十時か十時すぎ、それからヒョイと起きて書を読む。夜明けまで書を読んでいて、台所の方で塾の飯炊がコトコト飯をたくしたくをする音が聞えると、それを合図にまた寝る。
寝てちょうど飯のでき上がったころ起きて、そのまま湯屋に行って朝湯にはいって、それから塾に帰って朝飯をたべてまた書を読むというのが、たいてい緒方の塾にいる間ほとんど常きまりであった。[緒方、p113]
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 寝るといっても、「机の上につっぷして眠るか、あるいは床の間の床縁をまくらにして眠るか、ついぞほんとうにふとんを敷いて夜具を掛けてまくらをして寝るなどということは、ただの一度もしたことがない」という具合でした。

 そんな塾生たちに、洪庵は暖かく接していました。諭吉は「先生の平生、温厚篤実、客に接するにも門生を率いるにも諄々(じゅんじゅん、よくわかるように繰り返し教えさとすさま)として応対倦(う)まず、誠に類(たぐ)ひまれなる高徳の君子なり」と記しています。

・・・適塾へ全国から参集した若者の「勉学」に対する意気込みや姿勢には、現在の人は誰も太刀打ちできないのではないでしょうか。まさに学問をすることの「氣合い」が根本的に異なります。

福澤諭吉の述べる「寝る」は、現在の一般に考える「寝る」という概念ではありません。つまり、「仮眠」でしかありません。常に考え続けている結果、その様な「寝る」で当たり前だったのでしょう。一日も早く「蘭学」を習得したいという執念が為せる技だったのでしょう。

 

6.辞書の書写で自活できた塾生

 塾では五日に一回は10人ほどの会読があり、オランダ語の文法書や文典を読んでは訳していく。その出来によって、塾生としての等級があがっていく、という純粋な実力主義でした。家柄も年齢も関係なく、勉学ができなければ、何年塾にいても等級は上がりません。

 オランダ-日本語の辞書(ズーフ)は1セットだけ、3畳ばかりの「ズーフ」部屋に置いてあって、持ち出しは禁じられていました。塾生たちは分からない単語が出てくると、その部屋に行って調べるのですが、塾生が多いので、昼間はじっくり調べることもできません。そこで深夜にズーフ部屋を使う塾生もいて、夜通し灯りがついていました。

 適塾の蘭学は、当時、日本第一と称されていました。江戸でも蘭学はさかんでしたが、江戸から学びに来る者はいても、江戸に行く時は教えに行くのだ、という気概を塾生たちは持っていました。

 これほどの塾でも、塾生の食費も含めた費用は1日100文以下でした。現在の価値では2千円以下でしょう。当時需要の多かったオランダ語辞書を1日に半紙10枚(1枚に10行20字)写せば160文になるので、塾生はそれだけで自活できました。

 1日100文以下というのは、洪庵が治療などで受け取った謝礼を適塾につぎ込んでいたからだと言われています。そのため自身の生活は質素にしていました。ある時、改まった場所に出るのに上下(かみしも、礼服)がないので、知人に借用したということもありました。すでに大阪の名士と交わる地位にありながら、自身の名利には無頓着な人物でした。

 こういう人物のもとで、明治日本を躍進させた人材が大勢、巣立っていったのです。

 

・・・「五日に一回は10人ほどの会読があり、オランダ語の文法書や文典を読んでは訳していく。その出来によって、塾生としての等級があがっていく」

これは「会読」の同一の本を「研究・討議」する利点を生かしたものです。当然、力のないものは発言する機会も無くなりますから、自然にそれぞれが必死になって学ぼうとします。

現在の大学等の受験生で、誰にも頼らず自らの力で受験科目の基本書や問題集を読破していく、という自律・自立型の若者はどれくらいいるのでしょうか?

 

「緒方洪庵と適塾」 梅渓昇著 大阪大学出版会 (1996/10/31)

7.「医の世に生活するは人の為のみ」

 洪庵が訳した『扶氏経験遺訓』の原著末尾には、「医師の義務」と題する付録がついており、洪庵はそれに感動して、「扶氏医戒之略」と題した12カ条に訳しました。その一部を拙訳とともに紹介しましょう。

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一 医の世に生活するは人の為のみ、おのれがためにあらずということを其業(そのぎょう)の本旨とす。安逸を思わず名利を顧みず、唯(ただ)おのれをすてて人を救わんことを希(ねが)うべし

(医者が世に生活するのは人の為だけである、自分のためではない、という事を仕事の本旨とする。安楽を思わず、名利を顧みずに、ただ自分を捨てて、人を救うことを願うべきである。)

一 病者に対しては唯病者を視るべし。貴賤貧富を顧(かえりみ)ることなかれ。長者一握の黄金を以て貧士双眼の感涙に比するに、其心に得るところ如何ぞや。

(病者に対しては、ただ病者だけを視るべきである。身分の高低や財産の多寡を視てはならない。金持ちの一握りの黄金と、貧者の感謝の涙を比べてみれば、どちらが心に迫るだろうか。)

一 病者の費用少なからんことを思うべし。命を与うとも、其命を繋ぐの資を奪わば、亦何の益かあらん。貧民に於ては茲(ここ)に斟酌(しんしゃく)なくんばあらず。

(病者の費用が少なくなるように考えなければならない。命を救ったとしても、その命をつなぐだけの資金がなかったら、何の益があろう。貧しい人々に対しては、この点を思いやらなければならない。
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 洪庵の精神は、塾生の間にもよく浸透していたと見えて、橋本左内などは、夜ひそかに塾を出て、貧しい者の病の手当をしていました。

 現代でも、この「扶氏医戒之略」12カ条を額に入れて掲げている病院・医院は多いといいます。コロナ禍の中で、医療従事者の無私の奮闘が社会を支えてくれています。我が国の近代医学の祖が、こういう精神を残してくれた事の有り難さを感じます。

 

・・・正に、緒方洪庵は医者として、人を導く先生として、その人間性が見事に発揮された偉人であると言えます。明治維新後、慶應義塾を創設し、明治期の言論を主導した福澤諭吉にとって、緒方洪庵は学問の大恩人であるとともに、遥(はるか)高みにある目指すべき大人物であったのではないでしょうか。

 

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