いつの時代も、学生・生徒諸君は「何故、勉強するのか」と、常々反問します。自分自身に、親に、先生に、友人に。
答えは様々あると思いますが、
作家の太宰治が、「正義と微笑」の中で、作中人物に語らせているところがあります。
十六歳の少年が将来の大学進学に向けて進路の選択に迷っている頃の話です。
僕は、去年わかれた黒田先生が、やたら無性に恋しくなった。焦げつくように、したわしくなった。あの先生には、たしかになにかあった。だいいち、利巧だった。男らしく、きびきびしていた。中学校全体の尊敬の的だったと言ってもいいだろう。ある英語の時間に、先生は、リヤ王の章を静かに訳し終えて、それから、出し抜けに言い出した。がらりと語調も変わっていた。噛んで吐き出すような語調とは、あんなのを言うのだろうか。とに角、ぶっきら棒な口調だった。それも、急に、何の予告もなしに言い出したのだから僕たちは、どきんとした。
「もう、これでおわかれなんだ。はかないものさ。
実際、教師と生徒の仲なんて、いい加減なものだ。教師が退職してしまえば、それっきり他人になるんだ。
君たちが悪いんじゃない、教師が悪いんだ。
じっせえ、教師なんて馬鹿野郎ばっかりさ。男だか女だか、わからねえ野郎ばっかりだ。
こんな事を君たちに向かって言っちゃ悪いけど、俺はもう、我慢ができなくなったんだ。
教員室の空気が、さ。
無学だ!エゴ(*)だ。生徒を愛していないんだ。
俺は、もう、二年間も教員室で頑張って来たんだ。もういけねえ。
首になる前に、俺の方から、よした。きょう、この時間だけで、おしまいなんだ。
もう君たちとは会えねえかもしれないけど、お互いに、これから、うんと勉強しよう。
勉強というものは、いいものだ。
代数や幾何の勉強が、学校を卒業してしまえば、もう何の役にも立たないものだと思っている人もあるようだが、大間違いだ。
植物でも動物でも、物理でも化学でも、時間のゆるす限り勉強しておかなければならん。
日常の生活に直接役に立たないような勉強こそ、将来、君たちの人格を完成させるのだ。
何も自分の知識を誇る必要はない。勉強して、それから、けろりと忘れてもいいんだ。
覚えるということが大事なのではなくて、大事なのは、カルチベート(*)されるということなんだ。
カルチュア(*)というのは、公式や単語をたくさん暗記している事でなくて、心を広く持つという事なんだ。つまり、愛するという事を知る事だ。
学生時代に不勉強だった人は、社会に出てからも、かならずむごいエゴイスト(*)だ。
学問なんて、覚えると同時に忘れてしまってもいいものなんだ。
けれども、全部忘れてしまっても、その勉強の訓練の底に一つかみの砂金が残っているものだ。
これだ。これが貴いのだ。勉強しなければいかん。
そうして、その学問を生活に無理に直接に役立てようと焦ってはいかん。
ゆったりと、真にカルチベートされた人間になれ!
これだけだ、俺の言いたいのは。
君たちとは、もうこの教室で一緒に勉強は出来ないね。けれども、君たちの名前は一生忘れないで覚えているぞ。
君たちも、たまには俺のことを思い出してくれよ。
あっけないお別れだけど、男と男だ。あっさり行こう。
最後に、君たちの御健康を祈ります」
すこし青い顔をして、ちっとも笑わず、先生のほうから僕たちにお辞儀をした。
*エゴ=ego 自我、自惚れ、自尊心
エゴイスト=egoist 利己主義者、我意の強い人
カルチベート=cultivate 耕す、耕作する、磨く、洗練する、修める
カルチュア=culture 教養、洗練、文化、修養