幼児教室・学習塾の羅針塾では、塾生それぞれの力に応じて学年を超えて学ぶ力をつけていきたいと考えています。
従って、同学年での一斉授業は致しません。
何故なら、一定のラインで授業をすれば、そのライン以上の力を持つ子供さんは物足らなさを感じ、そのライン以下の力の子供さんは解らないということになります。
それぞれに応じた適切な「学び」は、「学び」の悦びにつながります。
さて、
渡部昇一上智大学名誉教授(専攻英語文法史。英語学者、歴史家、評論家)が『秘術としての文法』(講談社学術文庫1988)から、
小学校英語教育と英文法1
と重複する部分もありますが・・・
英文法に対する私の尊敬心の基となっているそれは、日本語から何らの類推をも許されない異質の言語である英語を、ゼロから出発して二年後にはちゃんとしたものを読めるようにし、手紙程度の英語をかけるようにしてくれたのは他ならぬ英文法であった。
・・・このお話は、筆者も中学一年生の時に習った女性教諭(中尾先生)から英語の手解きを受けた印象に近いものです。中学校から英語を始めるので十分であるというのは、筆者の公立中学生時の英語担当の先生方が一所懸命に教えてくださったことが原点としてあります。英文法の授業の黒板に数回消しては書き加えるご説明は、ノートのページがみるみる埋まるほどでした。筆記体で書くのも当然です。
私の体験から言っても、文法は誠に魔法であった。母国語は何となく覚えたので神秘感を持つことはなかったが、つい一〜二年までチンプンカンプンであった横文字の本が文法にしたがって文脈を追っていくと、明晰な意味が現出してくるということは何とも不思議な経験であった。
・・・更に、渡辺先生は述べられます。
つまり、こういう文法学(文献学)は、時空を超越した精神の世界を啓示してくれる、まさに秘技的な技術なのである。
文法の翼に乗って我々は空間的にギリシャに飛び、時間的には二千数百年タイムマシーンを逆転させ、プラトンやアリストテレスが、さながら眼前にあるがごとくに対話をすることができるのである。
これが魔術ではなくて、一体何が魔術の名に値するであろうか。
私が中学の最後の年にベーコンを読んだ体験は、規模こそとるに足りぬささやかなものであったにせよ、この魔法の世界を垣間見たことであったのだ。
東北の田舎の中学生が、エリザベス期のイギリスの大法官である学者と対面したのだから。
・・・渡部昇一先生が「読めなかったものが読めるようになる伝家の宝刀」が英文法である、と言っておられます。
若かりし頃の渡部昇一先生が論述されたのが、ドイツの大学の学位論文「初期近代英語文法の中世ラテン文法への依存的関係の研究」です。
この出発点が「中学の最後の年にベーコンを読んだ体験」であり、渡部昇一先生の一生のお仕事になる英語との関わりです。