幼児教室・学習塾の羅針塾では、学びを通して将来の「自分のあるべき姿」を見つけていって欲しいと考えています。コツコツ努力して学年で一番の中学生である塾生は、近い将来米国の一流大学への進学を目指しています。明確に、米国の大学で何を学びたいか、そしてその先の目指すべき仕事についても、しっかり考えています。
さて、
日本本来の常緑広葉樹で、津波、土砂崩れ、火災から国民を守る「いのちの森」づくりを提唱してきた宮脇昭・横浜国立大学名誉教授が、令和3(2021)年7月16日に93歳で永眠されました。
再々引用する「国際派日本人養成講座」No.1230 「宮脇昭 いのちを守る4千万本の植樹」をご紹介して、引用します。http://blog.jog-net.jp/202108/article_5.html
■1.東日本大震災の津波に耐えたタブノキやシラカシの森
(前略)
生態学者の宮脇昭教授は以前から、国内の防災には松や杉ではなく、タブノキなどの常緑広葉樹を植えるべき、と唱えて、植林活動を指導してきました。今までに国内および12カ国で指導して植えた木の数から「4千万本の男」とも呼ばれています。東日本大震災は、宮脇教授の理論が正しいことを証明しました。
■2.タブノキとの鮮烈な出会い
宮脇教授とタブノキの出会いは、被爆後の広島市街でした。赤茶けたがれきの残る市街のあちこちで雑草こそ芽を出していましたが、樹木は原爆の熱や放射能で失われていました。
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爆心地から一キロ半ほど離れた小さな社(やしろ)に、高さ一メートルほどの本が三本、枝葉を枯らして棒のようになって立っていた。三本ともタブノキ。近寄って足元を見ると、なんと根は生きていて、根元からは、タブノキ特有のピンク色の新芽が十本ほど出ていた。その感動は、八十年たった今も忘れない。・・・
なぜタブノキだけが再生しているのか、不思議だった。私とタブノキとの鮮烈な出会いでもあった。[宮脇昭『いのちの森づくり 宮脇昭自伝』、藤原書店、p84]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄宮脇教授はその後、ドイツに留学し、「潜在自然植生」という理論を学びます。人間の手が入らない、土地固有の植生がもっともその土地に適性を持っており、生命力も強い、という理論です。そして、宮脇教授は鎮守の森などに残っている樹木種の調査から、日本の土地本来の樹木はタブノキであることを発見したのです。
・・・確かに、広島・長崎の原爆被災地の写真などの映像を見ると、松などは燃え尽きているのに黒焦げの樹木が幹だけで立っているように見えます。長崎市坂本町の山王神社の所謂(いわゆる)「被曝楠」は、見事に命を繋いでいます。
■7.「自ら額に汗し手を大地に接して、小さな苗を植えていく」
宮脇昭教授は、本年7月16日、永眠されました。享年93歳でした。平成24(2012)年、84歳の時に教授は天皇皇后両陛下に「常緑広葉樹の植樹による海岸防災の森づくり」についてご説明し、こう結びました。
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日本人一人ひとりが、自分の愛する家族の、日本の国民のいのちを守るため、そして本物の緑豊かな国土を守るために、自ら額に汗し手を大地に接して、小さな苗を植えていく、その成果とノウハウを日本から世界に発信していきたいと願っています。[宮脇昭H25『瓦礫を活かす森の防波堤』学研パブリッシング, p33]
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説明が終わると、陛下は宮脇教授の目をじっと見つめ、「よろしくお願いします」と言われました。そのお言葉に宮脇教授は「日本の明るい未来と平和な世を願う陛下の切なる祈りをひしひしと感じた」そうです。国内外で2700カ所、4千万本以上の木を植えてきた宮脇教授は、両陛下への誓いをすでに十二分に果たしている、と言って良いでしょう。後に続く我々が、宮脇教授の遺した「成果とノウハウ」を継承発展させていくこと、それが宮脇教授にとっての何よりの手向(たむ)けになります。
・・・「いのちの森」づくりを提唱し、学問の道を極め実践する素晴らしい人生。
これからの日本を支える若者達の一つの指標になる偉人です。
感動的なお話は、「国際派日本人養成講座」No.1230 「宮脇昭 いのちを守る4千万本の植樹」をご覧下さい。http://blog.jog-net.jp/202108/article_5.html