幼児教室・学習塾の羅針塾では、幼児期の基幹教育(小学校就学前の学び)を終えたら、国語力をつける為の基本である漢字の学びを始めます。
その際、漢字の熟語は漢字・仮名交じりでは読みません。例えば、「国語」を「国ご」「食事」を「食じ」の文字では読みません。
さて、
致知出版社の人間力メルマガ 2021.8.24に、字幕翻訳者の戸田奈津子氏のインタビュー記事がありました。
筆者も仄聞(そくぶん:噂などで耳に入ること、人伝(ひとづて)に聞くこと)していたことですので、得心した次第です。引用してご紹介します。
字幕翻訳者の戸田奈津子さんか゛いまとても憂慮されていることがあります。
若い人たちを中心に「字幕離れ」が進んでいることです。
そしてそれは、日本語の崩壊にも繋がっていると戸田さんは指摘されています。日本語力という話と少し関連することだけど、ここ20年の間に若い人たちの間で「字幕離れ」が進んでいるんです。
つまり、吹き替え版を好む観客が増えてきている。
ある時、映画が字幕版と知った観客が「普通の映画はやっていないんですか」と尋ねたという話を聞いて驚きました。
その人にとっては吹き替え版が普通の映画なわけですね。
おそらく字が読めない若者が増えているからなのでしょうけど、日本国としても実に憂うべきことでしょうし、文化が死んでいくことを私もとても心配しています。これも少し前の話ですが、映画会社から「若い人は〝安堵〟という言葉が読めないから〝安心〟に変えてほしい」と言われて、強く反発したことがあります。
「安堵と安心はニュアンスが全く違う。それがどうして分からないの」と。
このことが誰も気にならなくなっているというのは怖いですね。
安堵という日本語を含めて、毎日言葉が死んでいる。
もう、あちこちに死体がごろごろ。(──確かに日本語の崩壊は深刻ですね。)
(戸田)
何を基準にしてそうなっているか私には分からないけど、〝拉致〟を〝ら致〟と書いたって、それだけでは分かりません。
漢字なら見て意味が通じるんです。
私は絶対に〝ら致〟なんて書きたくないから、必ず漢字で書いてルビ(読み仮名)を活用するようにしています。
そんな例はたくさんありますよ。日本は世界でも珍しい字幕国なんです。
外国映画を字幕で観る習慣がなぜここまで日本で定着したのかと言えば、
一つには日本人の識字率が高かったこと。
もう一つは本物志向が強いことです。ゲーリー・クーパーのようなステキな声は生で聞きたいという映画ファンは多いはずです。
いわゆるヒーローものの声優さんが吹き替えをやったって、あの味は出せませんよ。
でも、それすらいまの子には通用しない。
ないものねだりというか、それが時代の流れなのでしょうけど、
字幕を取り巻く環境の変化は残念ではありますね。
洋画(外国製映画)の字幕翻訳の歴史は約90年前に遡るそうです。日本で初めて日本語字幕がついた映画は、1930年に米国で制作された『モロッコ』です。日本公開は翌年の31年。翻訳者は田村幸彦氏です。田村氏は日米を行き来して翻訳技術を学び、字幕づくりの基本的なルールを作りました。1秒3、4文字、縦字幕で1行13文字(現在は10文字)、最大2行とされる田村さんの制作のルールは、今も映像制作における字幕翻訳の基本ルールとして根付いています。
・・・映像の下部(乃至は右横部)に流れる字幕を読みながら、映像を追いかけることが出来ない若者が増えている。 驚きです。
戸田奈津子氏のお話は、日本人の高かった識字率が低下している、また国語力が落ちてきている証左(=証拠)を表しています。
更に、
国語力の低下の一因として、外来語又は外来語的な言葉を「カタカナ」表記したり、用いたりする悪しき流行り(はやり)も問題です。日本語で書いたり表現するべきなのに、わざわざ「カタカナ」に変える愚は避けるべきです。例えば、「危機管理」を「リスク・マネジメント」、「適切な距離(を保つこと)」を「ソーシャル・ディスタンス」と表記することなどです。
仮に、どうしても英語表現をしたければ、「Risk Managemennt(リスク・マネジメント)」「Social Distance(ソーシャル・ディスタンス)」と、英語などの綴りを表記すべきです。そうすれば、英語の辞書で意味を確認出来るからです。
字幕翻訳者の戸田奈津子氏の言われる「字幕離れ」は、結局、小・中学校の義務教育期間に、しっかり国語教育をしなければならないことを示しています。そして、家庭で普段から国語辞書や漢字辞書を使いこなし、日常的に語彙力を増す工夫が必要です。
「漢字や語彙力の無いことは恥ずかしいことです。常識がないと言われない様に、しっかり学ばなければなりません。」と、筆者は母親から常々言われていました。
これは、昔も今も変わらない事実です。