長崎市の就学前教育(プレスクール)・学習塾の羅針塾では、国語力をつける為に学ぶ内容は、年齢・学年を問わず、力がある場合にはどんどんレベルを上げていきます。
小学校で学ぶ漢字数は、第一学年80字、第二学年160字、第三学年200字、第四学年202字、第五学年193字、第六学年191字の合計1,026字。
中学校で学ぶ漢字数は、1,110字。
小学校、中学校の義務教育機関に学ぶ漢字数の合計2,136字。
正直なところ、この漢字数では本来あるべき国語力は身に付きようもありません。世界に伍して活躍できる日本人を育てるには、母語である日本語の力をつけることが大前提です。
明治初期の日本人は「学問のすすめ」の内容をすんなり理解できる人々が競って読んだのです。
さて、「学問のすすめ」初編の続きです。
しかるを支那人などのごとく、わが国よりほかに国なきごとく、外国の人を見ればひとくちに夷狄夷狄と唱え、四足にてあるく畜類のようにこれを賤しめこれを嫌い、自国の力をも計らずしてみだりに外国人を追い払わんとし、かえってその夷狄に窘しめらるるなどの始末は、実に国の分限を知らず、一人の身の上にて言えば天然の自由を達せずしてわがまま放蕩に陥る者と言うべし。王制一度新たなりしより以来、わが日本の政風大いに改まり、外は万国の公法をもって外国に交わり、内は人民に自由独立の趣旨を示し、すでに平民へ苗字・乗馬を許せしがごときは開闢以来の一美事、士農工商四民の位を一様にするの基ここに定まりたりと言うべきなり。
されば今より後は日本国中の人民に、生まれながらその身につきたる位などと申すはまずなき姿にて、ただその人の才徳とその居処とによりて位もあるものなり。たとえば政府の官吏を粗略にせざるは当然のことなれども、こはその人の身の貴きにあらず、その人の才徳をもってその役儀を勤め、国民のために貴き国法を取り扱うがゆえにこれを貴ぶのみ。人の貴きにあらず、国法の貴きなり。旧幕府の時代、東海道にお茶壺の通行せしは、みな人の知るところなり。そのほか御用の鷹は人よりも貴く、御用の馬には往来の旅人も路を避くる等、すべて御用の二字を付くれば、石にても瓦にても恐ろしく貴きもののように見え、世の中の人も数千百年の古よりこれを嫌いながらまた自然にその仕来りに慣れ、上下互いに見苦しき風俗を成せしことなれども、畢竟これらはみな法の貴きにもあらず、品物の貴きにもあらず、ただいたずらに政府の威光を張り人を畏して人の自由を妨げんとする卑怯なる仕方にて、実なき虚威というものなり。今日に至りてはもはや全日本国内にかかる浅ましき制度、風俗は絶えてなきはずなれば、人々安心いたし、かりそめにも政府に対して不平をいだくことあらば、これを包みかくして暗に上を怨むることなく、その路を求め、その筋により静かにこれを訴えて遠慮なく議論すべし。天理人情にさえ叶うことならば、一命をも抛ちて争うべきなり。これすなわち一国人民たる者の分限と申すものなり。
・・・ところが、支那人(chinese)は、と当時の清の中華思想(漢民族が自己の中華思想文化・国土を理想的なものとして自国をいった美称。それに対して、周辺異民族を東夷・西戎・南蛮・北狄などと蔑称した考え方)を批判し、国としての分限(身の程、分際)を知らない、とする。
それに比べ、我が国は王政復古をして以来、政治体制を大きく改めて、国際法に則って外交し、内政では人民に自由独立の意味合いを示し、士農工商の位を一様に平等とする基礎を固めたと言える、と。
ところで、今後は日本国中の人民は、生まれながらの身分の差は無くなり、人の才徳(才智と徳行)と居処(地位、立場)によって、位もあるのである。政府の官僚も、その人の身分が尊いのではなく、その人の才徳でその役目を務め、国民の為に貴い国法を取り扱うからこそ、その人を貴ぶのである。人が貴いのではなく、国法が貴いのである、と。旧幕府の時代、お茶壺、御用の鷹、御用の馬など、「御用」の2字をつければ、貴いものの様に見えていた。数千百年の昔から、仕来りに慣れ、政府の威光(自然に人を服従させる様な威厳)で人民を脅して、自由を妨げる卑怯なやり方で、実体のない虚威(底の見え透いた脅し)である。
今日では、旧弊(古いしきたりからくる弊害)はないはずであるから、どんなことがあっても、政府に不平があれば、筋道に従って、訴えて遠慮なく議論すべきである。天の理(公明正大な理屈)と人情に叶う事ならば、命懸けで争うべきである。これが一国民である者の分限(身の程、分際)というものである。
前条に言えるとおり、人の一身も一国も、天の道理に基づきて不覊自由なるものなれば、もしこの一国の自由を妨げんとする者あらば世界万国を敵とするも恐るるに足らず、この一身の自由を妨げんとする者あらば政府の官吏も憚るに足らず。ましてこのごろは四民同等の基本も立ちしことなれば、いずれも安心いたし、ただ天理に従いて存分に事をなすべしとは申しながら、およそ人たる者はそれぞれの身分あれば、またその身分に従い相応の才徳なかるべからず。身に才徳を備えんとするには物事の理を知らざるべからず。物事の理を知らんとするには字を学ばざるべからず。これすなわち学問の急務なるわけなり。
・・・前条(前のくだり)に言う通り、人も国も天の道理(そうあるべき筋道)に基づいて、不羈(ふき:自由奔放で束縛できないこと)自由なものであるから、もし一つの国の自由を妨げようとする者があれば、世界万国(地球上の全ての国家)を敵とするとしても、恐るることは無い。一個人の自由を妨げようとする者があれば、政府の官僚にも遠慮することはない。およそ人たるものは、その身分に従い、それ相応の才徳(才智と徳行)を備えるべきである。その為には、物事の理(道理、法則、物事の筋道)を知るべきである。物事の理を知ろうとするには、字を学ばなければならない。これが学問の急務(急いでしなければならない仕事、任務)であるわけである。
・・・何故学ぶべきかを、諄々(人情が豊かで心がこもっている様子)と諭すかのような口調です。しかし、断言するかの様でもあります。この様な表現だからこそ、明治の日本人が、しっかりと文言を刻み込んで、学問をしなければならないと思ったのではないでしょうか。