最新の高校受験の傾向と分析のセミナーを受講してきますと、昔も今も変わらないことに気づきます。
一言で言うと、
幼児期から小学高学年に至る時期に、しっかり基礎教育を身につけているかどうか、ということです。
受験が近づいて慌てて準備しようとしても、読解力(語彙や漢字は当然のこと)や正確で早い計算力など、小学校で完璧にこなせて当たり前の訓練ができていないと、受験勉強が「付け焼刃」「砂上の楼閣」となります。
長崎市五島町の羅針塾 学習塾・幼児教室では、先ずは「読み・書き・算盤」のexpert(熟練者)になるよう指導していきます。
そして、歴史からしっかり学ぶことができる人になって欲しいと考えています。
さて、教科書に載らない歴史上の人物の再掲(加筆)です。
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東北大震災の復興支援に絡み、消費税などの増税論議がされています。
税の問題で、政権が倒れたり、国が崩壊する例は数多あります。
過去の歴史を紐解いても、施政者は民に税という負担をかけることに非常に気を遣います。
民を納得させるだけの、施政者の覚悟と姿勢が必要です。
さて、元気のでる歴史人物講座 日本政策研究センター主任研究員 岡田幹彦氏の記事からの引用(産經新聞平成21.5.13 )です。
■民に難儀かけず藩政改革
江戸期後半、財政が破綻(はたん)し再建は到底不可能と思われた信州松代(まつしろ)の真田(さなだ)藩を立て直したのが恩田木工(おんだ・もく)である。
藩政再建の大任を受けた恩田はすぐさま親類を呼び義絶(ぎぜつ)を申し入れ、次いで妻には離縁、子供に勘当(かんどう)、家来に解雇を申し渡した。
あまりのやり方に一同驚き、訳を聞かせよと詰め寄った。
「自分は今後、嘘(うそ)を一切言わない覚悟である。
しかし妻子らが嘘をつけば誰も私を信用しない。
そうなればとてもこのお役はつとまらない。
それゆえ妻子と離別し家来を去らせ親類と義絶することにした。私は、これから食事は飯と汁だけ、衣服も今後作るものは木綿にする。
そうなれば妻子らは辛抱できず、じきにうまいものも食べたくなるに違いない」すると妻子も家来も決して嘘はいわず言うとおりにしますから、このままおいてくださいと切願した。親類も虚言しないと誓った。
恩田はこうして自己の姿勢を正したうえ、藩内の庄屋、長百姓(おさびゃくしょう)、町方代表を呼び集めて今後、自分は嘘を一切言わない、役人は贈物・賄賂(わいろ)を一切受けない、従来の悪政を根本から改め民百姓に難儀をかけないと宣言、協力を要請し心血を注いで再建に励んだ。
恩田の至誠と愛民の至情に基づく政治に民百姓は随喜した。
恩田は5年後、46歳の若さで急逝した。
すべての民百姓が泣いた。
「百姓は大切の者なり」の精神を以(もっ)て一身を捧(ささ)げた江戸期の代表的政治家の一人であった。
歴史に残る日本の偉大な先人の事績は、長く語り継いでいかなければなりませんね。
それに比べ、現在の菅政権や政治家達に、私たちを納得させるだけの覚悟や姿勢はあるでしょうか。
恩田木工とは
恩田木工(恩田杢 おんだ もく) 享保2年(1717)宝暦12年(1762)は江戸時代中期の松代藩家老。 藩主真田幸弘により、宝暦7年(1757)民親は「勝手方御用兼帯」に任ぜられ藩政の改革を任されます。 質素倹約を励行し、贈収賄を禁止、不公正な民政の防止など前藩主時代に弛んだ綱紀の粛正に取り組む。 また、宝暦8年(1758)藩校「文学館」を開き文武の鍛錬を奨励。 恩田木工の取り組んだ公正な政治姿勢や文武の奨励は、藩士・領民の意識を改革しました。 恩田木工の藩政改革の事績を記した『日暮硯』には、倹約奨励、綱紀粛正、半知借上廃止、月割貢納制実施、先納年貢分切捨て、未進年貢分免除など、民を愛し誠実に政治を行い藩財政を見事に建て直した姿が描かれています。 信州松代藩は戦国の名将・真田昌幸の家系ですが、後代の藩の財政は逼迫。 『日暮硯』の逸話から。 恩田木工は、覚悟の上で公式の場に領内の百姓・町人つまり領民を呼び出し、これから自分は嘘をつかず、いったん決めたことを変更することはない、と約束します。 木工の優れたところは、質素倹約を無理に強いるのではなく、悪徳役人を処罰する際にも「これらの者どもは善い指導者が使えば善くなり、悪い指導者が使えば悪くなる」と藩主を説き伏せ、その彼らをも活かし切るという手立てを取ったことにあります。 慈悲と厳格を平等に適用し、たとえ身分が低い者といえども正直者が馬鹿を見なくて済む政治を実現しようとしました。 ・・・いつの時代も変わらない政治の要諦。 |