子供さんの教育を真摯に考えておられる親御さんは、ただ学校の成績や試験の結果が良ければそれで良し、とはお考えになりません。やはり、学力をつけるとともに、全人格的に優れた人に育って欲しいと考えておられます。長崎市中心部五島町の羅針塾 学習塾・幼児教室はその様な方々とご縁させていただいています。
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「人のことを羨んだり、蔑んだりするのは、人の道ではない」との意味で、よく聞かされた
「上見れば切り無し、下見れば切り無し」
という母の言葉。
他と比べるのではなく、自分の進むべき道を切りひらきなさい、という意味で使っていたのではないかと、今推察します。
教訓歌として、江戸後期の国学者、平田篤胤(ひらた あつたね)の歌があります。
「上見れば 及ばぬことの 多かれど 笠脱ぎて見よ 及ぶ限りを」
「上を見ると自分には及ばないことが多いものではあるが、狭い範囲だけを見るのではなく、できる限り広い世界を見、視野を広げることが肝要である。」
「井の中の蛙 大海を知らず」のように、自己を過大評価する奢りを戒め、世間の広さを知り、自分の知らないことが沢山あることを知る。それによって、自らの向上心につなげ、合わせて謙虚さも身につけていく。
そのような自己練磨が如何に大事であるかを歌に託しているのですね。
秋田藩士の子として生まれ、二十歳で脱藩。
そもそも故郷を捨て江戸に出奔するのは、自著で「己は何ちふ因縁の生れなるらむ」と述べるほど、幸せとは程遠い幼少年期を送ったのではないか、と言われています。
二十歳の寛政七年一月八日に出奔(正月八日に家を出るものは再び故郷に帰らないという諺に因み)、無一文同然で頼る処とて無く江戸に出たものの、生活を支える為に数多の職業に就き、火消しや飯炊き、三助などもしながら苦学したという。
寛政十二年二十五歳の折、勤め先の旅籠で備中松山藩藩士代々江戸在住の山鹿流兵学者であった平田藤兵衛篤穏(あつやす)の目にとまり養子となる。江戸では、独学で国学を学び、偉大なる国学者本居宣長(もとおりのりなが)の学問を研究。
処女作『呵妄書』を著し、以後、膨大な量の著作を次々に発表していく。
篤胤の執筆する様子は、何日間も寝ずに不眠不休で書きつづけ、疲れが限界に来たら、机にむかったまま寝て、十分に寝ると再び起き、また書きつづけるというものだったとの事。
縁あって、学問の道に進むことで
「上見れば 及ばぬことの 多かれど 笠脱ぎて見よ 及ぶ限りを」
の境地に至るのでしょうか。
国学者として名を上げて、『古道大義』『霊能真柱(たまのみはしら)』等多数の著作を発表。
多くの門人に慕われたが、幕府の禁に触れ、江戸での著述や活動を禁じられ、更に秋田に追放され二年後に亡くなる。
支那の儒教思想を一掃し、日本の国柄の核である神道を打ち立てて尊皇思想を重視した平田篤胤の思想は、死後も影響を与えた。
その結果、彼の思想は江戸幕末の尊王攘夷、明治維新の原動力となる。
・・・まさに「智の巨人」というべき偉人です。
「艱難汝を玉にす」という譬えそのままの人生であったのでしょう。
やはり、困難なときに如何に本領を発揮するか。
これは古今東西変わらない原理のように思います。