毎年行われる長崎の原爆忌(八月九日)。戦後七十二年経過すると、実際に被曝された方々も高齢化し、また次第に物故されています。更に被曝二世の世代も同様です。
ツイッターでフォローをしている国立公文書館は、様々な歴史的公文書をネット上で公開しています。その中で、長崎の原爆忌に合わせて「全国主要都市戦災概況図」が紹介されています。
昭和20(1945)年12月、戦災の概況を復員帰還者に知らせるために、第一復員省資料課によって、全国主要都市戦災概況図は作成されました。まえがきには、当時帰還しつつあった復員軍人軍属の内地上陸にあたっての質問第一声が、概ねまず戦災概況についてであることを知り、この調査の重要性とその迅速な調整の必要とを痛感した、と述べられています。
「全国主要都市戦災概況図」には、大東亜戦争の中盤以降、米国が日本の国土を次々に爆撃し、徹底的に破壊した爪痕が強烈に示されています。東京、大阪などの大都市のみならずず、多くの市町村も被災しています。これらは、軍事施設を爆撃するのみならず、無差別に爆撃を加え無辜の民を殺戮しているわけですから戦時国際法(Law of War)違反の戦争犯罪です。しかし、戦勝国の戦争犯罪が事実上無視されるのは国際政治の現実です。是非、上記のアーカイブをクリックして、七十二年前の日本各地の惨状を実際にご覧ください。
さて、長崎の戦災概況図です。やはり、七十二年前の長崎の原爆被害の凄まじさをまざまざと表しています。
筆者の両親は、長崎駅の南数百メートルの所に住んでいましたから、この戦況図で見るとギリギリ直接の被害が及んでいない位置となります。結果として、亡くなられた方々には申し訳ないことですが、幸いにも戦後を生きることが出来、筆者もこうして筆を採ることが出来ます。しかし、爆心地に近いところで被爆した母方の伯母は即死。叔母とその赤子が家屋の下敷きとなり、叔母は当日、従兄弟の赤子は数日して亡くなりました。戦前、戦中と長崎に在住している方々のお身内の方は、様々なお話を聞いていることと思いますが、それも次第に風化しつつあるのが現実です。