長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室 https://rashinjyuku.com/wp では、世界や日本の社会にも目を向け、様々な情報を集め、分析し、自らのしっかりした意見を持つ、少年・少女になって欲しいと思います。様々な意見や見解をよく聞き、その上で自らの見解を述べる、という姿勢を持つ。その為には、国語力をしっかり身につける必要があります。母国語である日本語の力がしっかりと身に付けば、英語などの外国語も同様に用いることができます。敢えて言えば、漢字力のある児童・生徒は、英語の単語を覚えることは造作もないと思います。
さて、このような記事が目につきました。
「心の知能指数=EQ」育てる教育が必要だ
精神科医、国際医療福祉大学教授・和田秀樹
http://www.sankei.com/life/news/171002/lif1710020003-n1.html
統計数字を無視して「学歴エリートは道徳観に乏しい」というような短絡的な考え方が、無責任なコメンテーターなどを通じて社会に流されると、子供の教育に悪影響を与えないか、と危惧するだけだ。
私が見るところ、日本のエリートに足りないのは、勉強プラスα(アルファ)の教育である。しかし、一般的な道徳知識を教え込むだけの教育では不十分だ。それは、これらの知識が十分すぎるくらいあるはずの山尾氏の言動をみると示唆されることである。
アメリカでもかつて、ハーバードのビジネススクールのような一流の大学院を出ても、社会で成功できない人間が2割もいることが問題視された。
日本と異なり、単なるペーパーテストだけでなく、面接もリポートも評価され、また学者による講義的な教育だけでなく、政治家や経営者のような社会の成功者がディスカッションなども行っているのに、むしろ日本の高学歴者より成功確率が低いのである(大成功を収めるものはもちろん日本より多いが)。
そして、そういう人たちの研究を通じて、彼らに足りない能力があぶり出された。
それが「心の知能指数」とされるものだ。これをタイム誌がIQ(intelligence quotient=知能指数)に対抗する概念としてEQ(emotional intelligence quotient)と呼んで以来、この呼び方が一般的になった。
≪EQ導入で人材の破滅を防げ≫
EQ概念を考案したエール大学のピーター・サロベイ氏とニューハンプシャー大学のジョン・メイヤー氏によると、EQの5大要素は以下の通りだ。
(1)自分の感情を正確に知る、(2)自分の感情をコントロールできる、(3)自己を動機づけられる、(4)相手の感情を知る、(5)社交能力がある-。
(中略)
日本でもEQを紹介する本が翻訳され、大ベストセラーになったことがあるが、IQを否定してそれに代わるもののような紹介のされ方だった。
しかし、アメリカでは高いIQを持つものにEQ教育を行うことで、その能力を引き出すという考え方で、IQ教育にEQ教育を追加すべきだというのが、提唱者たちの主張である。実際、高校教育や大学院生や社会人のリーダーシップ教育に導入され、大きな成果を挙げているといわれる。
たとえば感情のコントロールにしても、テクニックを知るだけでは不十分かもしれない。しかし、かつてと比べパワハラで訴えられるリスクが高まり、またいつ録画・録音がされているか分からないのだから、このテクニックを知るだけでもかなりの価値がある。
少なくともエリート候補の一流大学などに導入されて、有能な人材の破滅を少しでも減らしてもらえればと願う。
・・・なるほどなあと思いながら、上記の「EQの5大要素」と米国の基準を見ると、実は日本人が本来持っている倫理観で説明できるように思います。
EQの5大要素
(1)自分の感情を正確に知る、
→内省(ないせい:自分自身の心の働きや状態を顧みること)
(2)自分の感情をコントロールできる、
→克己(こっき:自分に打ち勝つこと。心の中に起きる衝動や欲望を自己の意思の力によって押さえつけること。)
(3)自己を動機づけられる、
→志(こころざし:心に決めて目指すこと。世の為人の為に、何を為すべきか、何を行うかを心に決めること)
(4)相手の感情を知る、
→忖度(そんたく:他人の氣持ちを推し量ること、推察すること。)
(5)社交能力がある
→接待(せったい:心を込めて客を持て成すこと)。
「アメリカでは高いIQを持つものにEQ教育を行うことで、その能力を引き出すという考え方」があるようですが、日本古来の教育の理念には、「内省、克己、志、忖度、接待」と、社会的な地位に関わらず、当然の如く幼児期から学んでいました。
従って、欧米流の考え方を推奨されると、それらしく思わせられますが、実は「灯台下暗し」で、古来からの日本の教育の歴史を紐解けば、無理なく理解できます。欧米の思想や理屈をありがたがる風潮は、明治以降の所謂進歩的知識人の通弊(つうへい:一般に共通してみられる弊害)のように思います。