父と子

長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室https://rashinjyuku.com/wpでは、漢字の字義(文字の意味)をよく理解するように指導します。その為にも、多くの書物に接する機会を持つことがとても大事です。親子での図書館の活用や、辞書を座右に置くことをお勧めします。

さて、『論語に学ぶ〜論語は美しい言葉と智慧の宝庫』(講師 安岡定子氏)の講演会を先にご紹介しましたが、その御祖父安岡正篤先生のご紹介です。公益財団法人郷学研修所・安岡正篤記念館からの引用です。https://www.noushi-kyogaku.com/index.html

安岡正篤とは、

世の中を良くするのは主義主張やイデオロギーではなく、公私ともに優れた人物であるとの信念の下、在野に在ってその養成に一生を尽くす。特に国民の幸不幸は政治の影響が大きいとし、政財官界の指導者層の啓発・教化・指導に力を注ぐ。その教えの基本は、日本の伝統を大切にする立場からの東洋的な思想・哲学であった。昭和20815日正午、天皇陛下の「終戦の詔書」がラジオで放送された。この詔書を最終的に刪修(さんしゅう)したのが安岡正篤である。また、元号「平成」の考案者であり、吉田茂から中曽根康弘に至る歴代の総理大臣の指南番的存在でもあった。
※刪修=不要な字句又は文章を削り取って改めること。

安岡正篤は、なによりも古典と歴史に学ぶこと、そしてそれを実生活の上に活かすこと、つまり「活学」しなければならないと教える。なぜなら、現代の諸問題も、既に古聖賢哲がその対処・解決法を古典の中に残しているからであると言う。そして、自身が若き日から命懸けで学んできた和・漢・洋の古典と歴史に立脚し、東洋哲学的な観点から、実践的な指針を我々に示すのである。

生前はほとんど表に出ず、知る人ぞ知る存在だった。しかし没後、著書や講演録、講録のテープ・CD等が相次いで出版され、30年以上経た今でも、己の生き方や国家の在り方を真剣に考える人々に熱く支持され、深い感動と人生の指針を与えている。
またその教え=安岡教学・安岡人間学に基づいた大小様々な勉強会や集りが、道を求める人々によって全国各地で催されており、一燈照隅(*)が実践されている。

(*)安岡正篤先生は、天下国家をあれこれ論じるよりもまず自分がいる場所を明るく照らせる人間に、という意味を込めて「一燈照隅・萬燈遍照」とおっしゃっています。

「自分か居るその場を照らす。これは絶対に必要なことで、また出来ることだ。真実なことだ。片隅を照らす! この一燈が萬燈になると『萬燈遍照』になる。こういう同志が十万、百万となれば、優に日本の環境も変わりましょう。」、と。

筆者も様々な安岡正篤先生の書籍に触れてきましたが、含蓄のある言葉に、鼓舞されてきた記憶があります。「一燈照隅」とは、一つの燈(ともしび)を以って、一隅(ひとすみ)を照らすこと。ひいては、その燈が、十にも百にも、更に萬の燈となって遍(あまね)く国中を照らすことができる、即ち「萬燈遍照」であるとの意です。

ところで、

先日塾生のお父様方と話をする機会がありましたが、父と子、母と子の役割について様々なご意見がありました。丁度、以下の安岡正篤先生の言葉がありました。

http://kyogaku.or.jp/kotoba12.html

父と子

「父子の間は善を責めず。善を責むれば即ち離る。離るれば即ち不祥焉(これ)より大なるは莫(な)し。」(『孟子』離婁上)

 父というものは子に対して、あまり道義的要求をやかましくするものではない。それをやると、子が父から離れる。父子の間が疎くなる。父と子の間が離れて、疎々しくなるほど祥(よ)くないことはない。

 立派な人がなぜ自分の子を教えないのか。それは、やろうたって、勢いやれないからである。父が子を教えるからには、必ず父自身これが正しいことだと信ずることを子に納得させ、実行させようとするのである。それだけに、それが行われないとすると腹が立つ。子に対して腹を立てれば反って打壊しである。子供は子供で、なんだ阿父(おやじ)、俺に道徳を責めるが、御自分様は何でも御立派というわけでもないじゃないか、と内心おもしろくない。こうなると父子両方で打壊しである。これはいけない。

 だから昔の聖人も子をとりかえて教えたものである。つまり他人に師事させた。(中略)道徳は根本において真実でなければなりません。自然——誠でなければなりません。したがって、のんびりして、明るくなければならないのです。ぎこちなく硬ばっていたり、陰気でじめじめしているのは決して道徳的正ではありません。

 しからば父は子を教えることはできないか。(中略)少なくとも父は子を放っておくより外はないかというと、そんなものでもありません。宋の王安石は(中略)、孟子のここの意味を釈(と)いて、『孝経』には「争子」という言葉さえある。(注=父の不義不正を諫争する子という意味で、喧嘩する子ではない。)ただ、その争も善を責める意味ではなくて、盲従せずに正義を主張することで、父が子に対しても、正しくないことは戒めるだけであると申しております。

 元来父子の間というものは、同じ人間関係(人倫)の中でも、師弟や朋友の間と違って骨肉、すなわち血を分けた間柄、より多く自然的関係でありますから、情愛・恩愛が本領で、理性による批判や抑制である正とか義とかを建前にすべきではないからであります。

(『身心の学』—古教照心—より)

子を持つ父親として、熟読玩味すると得心できるお話です。

因みに、お父様方はご自分を子供さんにどのように呼ばせていますか。お父さん、パパ、ひょっとして父上。外交評論家の加瀬英明氏が「加瀬英明のコラム」で蘊蓄を述べられています。http://www.kase-hideaki.co.jp/magbbs/magbbs.cgi

 今日の日本では、多くの人々が心を軽んじて、自分本位になるなかで、人々のあいだの絆だけではなく、家族が崩壊しつつある。家族の崩壊は、やがて国の崩壊をもたらす。

 祖先を崇めて深く感謝することは、家族の結束を強め、親が子を子が親を大切にすることにつながる。

 いま、子に親を「パパ」「ママ」と呼ばせる家族が多い。「パパ」は、英語ではない。

 「パパ」は、イギリスのインド統治から、ヒンズー語が英語に入ったものであり、「ママ」は「マザー」(英語)、
「ムター」(ドイツ語)などヨーロッパ諸語に由来するが、中国語でもある。

 父を敬い、母に感謝するのなら、どう呼ぼうとよいが、日本語のもととなっている古代の大和ことばでは、父は「トト」(尊い)、母は「カカ」(太陽がカッカと照る)と呼ばれたことを、知ってほしい。

日本では、古来「言霊(ことだま)の幸(さきは)ふ国」(言葉の霊力が幸福をもたらす国)と言われています。現代の日本語の大元である「大和言葉」では、尊いの「ト」から「トト」、「トウ」(父)→「トウサン」(父さん)となったのでしょう。

母は、「カカ」(太陽がカッカと照る)から、「嬶(カカア)」→「カアサン」(母さん)。太陽神を表す日本古来の天照大神(あまてらすおおみかみ)は「女神」ですから、「太陽がカッカと照る」は、家庭を元気にしたり、暖かくする母親の役割をうまく表現していますね。

posted by at 09:31  |  塾長ブログ

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